道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
原文 | 書き下し文 |
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道俗時衆共同心 | (道・俗・時衆、共に同心に) |
唯可信斯高僧説 | (唯斯の高僧の説を信ずべし) |
目次
正信偈の最後、親鸞聖人の呼びかけ
これは『正信偈』最後の二行です。
「道・俗・時衆、共に同心に
唯斯の高僧の説を信ずべし」
と読みます。
「道」とは仏法を説く者、
「俗」は在家の人、
「時衆」とは、そのときどきに集まってきた人たちのこと。
ですから「道俗時衆」で「すべての人」ということです。
「道・俗・時衆、共に同心に」とは、
「皆の人よ、どうか、この親鸞と同じ心になってくれよ」と呼びかけておられるお言葉です。
この、親鸞聖人と同じ心とは、どんな心のことでしょうか。
それは聖人ご自身が、『正信偈』冒頭におっしゃっている、
帰命無量寿如来
南無不可思議光
と叫ばずにおれない心なのです。
これは、
「無量寿如来に親鸞、帰命したぞ。
不可思議光に親鸞、南無したぞ」
と読みます。
”親鸞、とはどこにも書かれてないけど……”
と思われる人もあるかもしれませんが、
これは他人のことではない、ご自分のことを言われているお言葉ですから、当然「親鸞は」ということになります。
そこで、この二行の意味を理解するには、四つの仏教の言葉を知って頂かねばなりません。
すなわち
「無量寿如来」と「不可思議光」
そして
「帰命」、「南無」
の四つです。
まず、「無量寿如来」「不可思議光」とは、
ともに、本師本仏の阿弥陀如来のこと。
大宇宙の仏方の先生である阿弥陀如来は、他の仏にはない、沢山のお力があります。
そのお力に応じて、阿弥陀如来はいろいろのお名前を持っておられます。
中でもお釈迦さまが、お経によく使われているのが「無量寿如来」、続いて「不可思議光」ですから、親鸞聖人は『正信偈』の初めに、阿弥陀如来のことをこの二つのお名前で呼んでおられるのです。
次に、「帰命」と「南無」は、いずれも「救われた」「助けられた」ということですから、二行の意味はこうなります。
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ」
「阿弥陀如来に親鸞、助けらたれぞ」
大宇宙最高の仏であられる、弥陀に救い摂られた実体験を、聖人自ら告白されているお言葉であることがお分かりでしょう。
同じことを二回おっしゃっているのは、
言っても言っても言い尽くせぬ驚き、
書いても書いても書き足りぬ満足、
無限に叫ばずにおれない歓喜を表されています。
この冒頭の二行から、次のことがわかります。
○弥陀の救いは、生きている現在である。
○弥陀に救われたら、ハッキリする。
阿弥陀仏の救いは現在ただ今ハッキリする
まず、「弥陀の救いは、生きている現在である」とは、 どういうことでしょうか。
聖人が『正信偈』を書かれたのは、当然ながら、生きておられる時。
その『正信偈』に、「親鸞、弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」と叫ばれているのですから、「弥陀の救いは、現在ただ今である」ことは、歴然ではありませんか。
言葉をかえれば、「弥陀の救いは、決して死後ではない」ということです。
今日、浄土真宗の門徒といっても、他宗派の人から「門徒、物知らず」と揶揄されるように、親鸞聖人の教えは、何にも聞かされていない、といっても過言ではありません。
たまに寺参りしている人があっても、ほとんどの人は、「我々凡夫に、この世で救われる、なんてあるはずがない」とあきらめて、
「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまだから、こんなものを死んだら極楽に助けてくださる」
と、死後の華降るお浄土ばかりを夢見ています。
人間がこの世でハッキリ救われるなどとは、だれも信じられないことだからです。
そんな迷いを打ち砕き、
「死んだらお助けじゃないぞ、生きている現在の救いだぞ」と、生涯叫び続けていかれた方が親鸞聖人ですから、聖人の教えを漢字四字で「平生業成」といわれるのです。
「平生」とは、死んでからではない、現在ただ今。
「業」とは「人生の大事業」のことであり、「弥陀の救い」にあうことです。
「成」は「完成する」こと。
「人生の大事業(弥陀の救い)が、生きている現在、完成する。だから早く完成せよ」
親鸞聖人九十年のメッセージは、これ以外ありませんでした。
そして「弥陀に救われたら、ハッキリする」ことも、『正信偈』の初めの二行でわかります。
ハッキリしていないことならば、親鸞聖人のような方が、「救われたぞ、助けられたぞ」とハッキリ書かれるはずがないからです。
そんないい加減なウソをつかれたとなれば、だれも世界の光とは尊敬しないでしょう。
親鸞聖人が、同じことを二回も繰り返して、ハッキリ言われているということは、
「弥陀の救いはハッキリする」からです。
「そんなハッキリするものではない」とか、「ハッキリする人もいるが、しない人もいるんだ」などというのは皆、間違いです。
ほかにも聖人は、主張『教行信証』の至るところに、
「真に知んぬ」
「まことなるかなや」
また蓮如上人も『御文章』に、
「今こそ明らかに知られたり」
と宣言されているのも、鮮やかな弥陀の救いにあわれた体験を告白されたものです。
救われたら、必ず、ハッキリするのです。
ハッキリしていないのは、まだ救われていないからです。
「弥陀の救いは現在であり、ハッキリする」ことが分かられたならば、次に知りたいのは、「親鸞聖人は、何を救われた、と言われているのか」でしょう。
一言で言えば、「後生の一大事を解決して頂き、未来永遠の幸福に救い摂られたこと」です。
その弥陀の絶対の救いにあわれた喜びを、『正信偈』冒頭の二行に記された聖人が、最後に
「この親鸞と同じく、絶対の幸福になってくれよ」と熱望を語られているのが、
「道・俗・時衆、共に同心に」の
お言葉なのです。
ただ阿弥陀仏の本願、信ずべし
「では親鸞さま、あなたと同じように絶対の幸福に救われるには、どうすればよいのですか」
とお尋ねすると、次の行にこう答えておられます。
「唯、斯の高僧の説を信ずべし」
「唯」とは、「たった一つ」「これしかない」ということ。
「斯の高僧」とは、弥陀の救いを正しく伝えてくだされた、
インドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国では曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、それから仏教は日本に伝わり源信僧都、そして法然上人です。
「これら七高僧の教えを、信じてくれよ」
と親鸞聖人は勧めておられるのです。
七高僧
(1)龍樹菩薩
(2)天親菩薩 インド
(3)曇鸞大師
(4)道綽禅師 中国
(5)善導大師
(6)源信僧都 日本
(7)法然上人
七高僧の教えといいましても、
「弥陀の本願」以外にはありません。
ですから、
「唯、斯の高僧の説を信ずべし」とは、
「ただ弥陀の本願を聞信するほかに、助かる道はないのだ」
とおっしゃったお言葉です。
”これは決して、親鸞が勝手に言っているのではない。
あの偉大な七高僧の方々が、みな口をそろえて教えられていることなんだ。
弥陀の本願は、時を超え所を超えて不変の真実なのだ。
だからどんな人でも必ず救われる。
どうか、一日も片時も急いで、聞き抜いてもらいたい。
この広大無辺な世界を味わってもらいたい。
これが親鸞の願いなのだ”
『正信偈』120行を書かれた聖人の熱い御心は、これ以外に何もなかったことも、お分かりになるでしょう。
だから親鸞聖人の最もお喜びになることは、私たち一人一人が、阿弥陀仏の本願を真剣に聞き求め、聖人と同じく絶対の幸福に救い摂られることなのです。
『正信偈』を体で読み破り、
「人間に生まれたのはこれ一つだった」と、生命の大歓喜を獲るところまで、他力を聞かせていただきましょう。