如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言
原文 | 書き下し文 |
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如来所以興出世 | (如来世に興出したまう所以は) |
唯説弥陀本願海 | (唯弥陀の本願海を説かんとなり) |
五濁悪時群生海 | (五濁悪時の群生海) |
応信如来如実言 | (応に如来如実の言を信ずべし) |
目次
- 仏教に教えられたたった1つのこと
- お釈迦さまは色々なことを教えられたの?
- お釈迦さまが説かれた、ただ1つのこと
- 海にたとえられたのはなぜ?
- 阿弥陀仏のなされたお約束とは?
- 親鸞聖人からあなたへのメッセージ
仏教に教えられたたった1つのこと
これは親鸞聖人が、お釈迦さまが仏教に説かれたたった一つのことを教えられた大変重要なところです。
まず最初の2行は
「如来世に興出したまう所以は
唯弥陀の本願海を説かんがためなり」
と読みます。
「如来」とは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。
約2600年前、インドでご活躍なされ、今日、世界の三大聖人、二大聖人といわれても、トップにあげられます。
そのお釈迦さまが、35歳のとき、仏のさとりを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間説かれた教えを、今日仏教と言われています。
仏のさとりといいましても、何をさとるのかといいますと、大宇宙の真理です。
大宇宙の真理を仏教で「真如(しんにょ)」と言いますから、真如を体得して来たり現れた人を「如来」といいます。
ですから「如来」は「仏」と同じで、ここでは釈迦如来、お釈迦さまのことです。
なぜかというと、次に「世に興出したまう」と言われているからです。
「世に」とは、この地球上に、
「興出」とは、お生まれになられた、ということですから、
「世に興出したまう」とは、
地球上にお生まれになられた、ということだからです。
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるように、地球上で仏のさとりを開かれたのは、お釈迦さまただお一人ですから、この「如来」は、釈迦如来のことになります。
次に「所以は」とは、目的は、ということですから、
「如来世に興出したまう所以は」とは、
お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。
仏のさとりを開かれたお釈迦さまは、45年間、一切経、七千余巻といわれる、たくさんのお経を説かれました。
それだけ多くのお経を説かれたお釈迦さまは、色々のことを教えられたのでしょうか?
お釈迦さまは色々なことを教えられたの?
ところが親鸞聖人は、お釈迦さまが地球上に現れた目的は「唯説」であった。ただ一つのことを説かれるためであった、と言われています。
「唯」は、2つも3つもない、ただ1つ、
「説」は、教えられるためであった、ということです。
これは、お釈迦さまの教説は、たった一つのことであったのだ、という大変な断言です。
釈迦の一切経は、今日で言えば7千冊以上のお経がありますから、3千冊読んでも、後の4千冊に何が書いてあるかわかりませんので、こんな断言はできません。
こんな断言をするには、一切経をあますところなく読んで、しかも正しく理解しなければなりません。
親鸞聖人は、一切経を何度も何度も読み破られての断言なのです。
「45年間教えられた」とか、「一切経」「七千余巻」と聞くと、お釈迦さまは色々なことを教えられたように思いますが、そうではなかったのです。
ただ1つのことが教えられているのです。
ですから、そのたった一つのことを聞けば、仏教すべてを聞いたことになり、それ一つを知れば、仏教すべてを知ったことになるのです。
いかにそれが大事なことか、お分かりでしょう。
ではそれは一体何でしょうか。
お釈迦さまが説かれた、ただ1つのこと
親鸞聖人は、それこそ
「弥陀の本願」だと教えられています。
「弥陀」とは、阿弥陀仏のこと。阿弥陀如来といっても同じです。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のことですから、阿弥陀仏のなさっておられるお約束のことを言います。
阿弥陀仏とお釈迦さまの関係については、蓮如上人が『御文章』にハッキリ教えられています。
阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり。
(蓮如上人『御文章』)
「三世十方の諸仏」とは、大宇宙の数え切れないほどの仏方をいわれます。
「本師本仏」とは、「本師」も「本仏」も先生ということですから、阿弥陀仏は、大宇宙の仏方の先生の仏だ、ということです。
地球に現れたお釈迦さまも、大宇宙の仏のお一人ですから、阿弥陀如来とお釈迦様の関係は、師匠と弟子ということになります。
弟子の使命は、先生の御心を伝えることだけですから、お釈迦さまは、一生涯、阿弥陀仏の本当に願っておられる御心、本願一つを説かれたのです。
ではその阿弥陀仏の本願を、
「弥陀の本願海」と、親鸞聖人が海にたとえておられるのは、どうしてなのでしょうか。
海にたとえられたのはなぜ?
地上に降った雨は、最後は、海に流れ込みます。
すべての水は、最後、海に入らなければおさまらないように、すべての人は、最後、阿弥陀仏の本願によらなければ助からないことを「本願海」と海にたとえられています。
天気のいい日に、山の上を飛んでいる飛行機の中から下を見おろすと、至るところに水たまりがきらきら光っているのが見えます。池とかダム湖とか湖のようなものです。
そんなところに水がたまっても、一時的で、やがてそこをあふれて水は流れていき、また、少し下にある水たまりに水がたまります。
そしてしばらくそこにたまっているのですが、やがてまたあふれて流れていきます。
日本で一番大きい琵琶湖でも、そういう湖の一つです。
琵琶湖に入った水でも、そこでは落ち着きませんので、また流れ流れて、最後は海へ入ります。
ちょうどそのように、世界にたくさんの宗教があり、今、キリスト教を信じている人も、イスラム教を信じている人も、その他さまざまな宗教を信じている人もありますが、それでは本当には救われず、最後は、阿弥陀仏の本願によらなければ助かりません。
これを聖徳太子は、十七条憲法に
四生の終帰、万国の極宗
(聖徳太子『十七条憲法』)
といわれています。
「四生の終帰(ししょうのしゅうき)」とは、
「四生」とは、生きとし生けるものすべてのことです。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる唯一絶対の教えである、ということです。
聖徳太子が断言されているように、古今東西の全人類が救われるたった一本の道が仏教ですから、「万国の極宗(ばんこくのごくしゅう)」ともいわれているのです。
このように、すべての人は、最後は仏教によらなければ助からないのですが、仏教は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたものですから、最後は阿弥陀仏の本願に入らなければ、虫けら一匹助からないということです。
それで親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を、
「弥陀本願海」と海にたとえておられるのです。
では阿弥陀仏の本願とは、どんなお約束なのでしょうか。
阿弥陀仏のなされたお約束とは?
阿弥陀仏は
「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
というお約束をしておられます。
絶対の幸福とは
「人間に生まれてよかった」という絶対変わらない幸せにしてみせる、ということです。
この阿弥陀仏の本願によって、29歳のときに絶対の幸福に救い摂られた親鸞聖人は、
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、
超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
(親鸞聖人『教行信証』総序)
と言われています。
「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も
阿弥陀仏の本願のことです。
阿弥陀仏の本願の通り、絶対の幸福に救い摂られた親鸞聖人が、
「本当だった、まことだった、弥陀の誓いにうそはなかった。
なんとか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを」
と言われているお言葉です。
親鸞聖人からあなたへのメッセージ
「そのすばらしい阿弥陀仏の本願一つを説かれるために、お釈迦さまは、この世にお生まれになったんだ。だから、早くこの弥陀の本願を聞いてもらいたい」
と親鸞聖人は、次に
「五濁悪時の群生海、応に如来如実の言を信ずべし」
とおっしゃっています。
「五濁悪時」とは、色々と汚れた今日のような時のことです。
子が親を殺し、親が子を殺し、考えられないようなことばかり起こります。
そんな乱れた時代を
「五濁悪時」と言われます。
「群生海」とは、生きとし生けるものは海のようにたくさんいますので、すべての人を「群生海」と言われています。
すべての人よ、まさに如来如実のことばを信ずべし
「如来如実のことば」とは
「如来」とは、釈迦如来です。
「如実」とは、真実のことですから、
「如実のことば」とは、真実のことば、まことの言葉ということです。
お釈迦さまのまことの言葉とは、お釈迦さまが一生涯、ただ一つ説かれた
「阿弥陀仏の本願」のことです。
うそいつわりのない、真実そのままのお言葉だから、それを信じなさいよ、
「まさに如実のことばを信ずべし」
これより他に私たちの救われる道はないんですよ、とおっしゃっている親鸞聖人のお言葉です。