遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
原文 | 書き下し文 |
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遊煩悩林現神通 | (煩悩の林に遊びて神通を現じ) |
入生死薗示応化 | (生死の薗に入りて応化を示す といえり) |
目次
極楽へ往ったら何するの?
正信偈のこの前の4行で、親鸞聖人は、
「この世で阿弥陀仏に救われて、正定聚の身になった人は、死ぬと同時に阿弥陀仏の極楽浄土へ往けるのだよ」と教えられています。
では、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開かせて頂いたら、八功徳水の温泉につかって、百味の飲食たらふく食べて、応報の妙服を着て、「ああ、娑婆の者は、苦しんどるな」と眺めていることができるのでしょうか?
もちろん、そんなことはとてもできません。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の極楽浄土へ往ったらどうなるか、ここで教えられています。
煩悩の林に遊んで……
まず「煩悩の林」とは大衆のことです。
親鸞聖人は、私たちを「煩悩具足の凡夫」と言われていますように、欲と怒りと愚痴によってできているのが私たち人間です。
1人が108の煩悩でできていますから、
10人集まれば1080
100人集まれば10800
まさに煩悩のジャングルのようなものですので、そんな人間の集まりを、「煩悩の林」と言われています。
次に「遊ぶ」というのは、パチンコや麻雀で楽しむことはありません。
そんなものは、私たち人間の遊びであって、仏様の遊びではないのです。
では仏様のお遊びは何かといいますと、衆生済度です。
「衆生」とは、すべての人たちですから、この世で苦しんでいるすべての人を「済度」する。
苦しみ悩める大衆の中に飛び込んで、それらの大衆を救うのが浄土から帰って来られた方の遊びなのだ。
苦しんでいる人を見ると、とてもじっとしてはおれない、何とか苦しみを抜いてやりたい、そして本当の幸せに救ってやりたいと思われるのが、仏の慈悲なのです。
そして「神通を現じ」とは、自由自在に活躍する、思う存分、自由自在に衆生済度する、ということです。
生死の薗に入りて応化を示す
次の「入生死薗示応化」は、
生死の薗(その)に入りて応化(おうげ)を示すといえり、
と読みます。
「生死の薗」というのも、
「煩悩の林」というのも、
同じ意味で、苦しみ悩む人たちのことです。
苦しみ悩む人たちの中に飛び込んで、「応化を示す」というのも、「神通を現じ」と同じことで、色々なすがたをして、色々なことをして、自由自在に衆生を済度することです。
煩悩の林 神通を現じ
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生死の薗 応化を示す
「応化」とは、相手に応じて化導する、導く、ということですから、相手に応じて、
子どもなら子ども、男なら男、女なら女、学問のある人なら学問のある人、その人に応じた仕方で済度する、ということです。
このように、
煩悩の林に遊びて神通を現じ、
生死の薗に入りて応化を示す、
というのは、
極楽に往った人は、苦しんでいる人をじっと見ていることなんてできない。
再びこの娑婆世界に帰ってきて、苦しみ悩むすべての人を救う為に、自由自在に活躍するのだよ、と教えられた親鸞聖人の正信偈のお言葉です。