慶喜一念相応後
原文 | 書き下し文 |
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慶喜一念相応後 | (慶喜一念相応の後) |
目次
相応とは?
「慶喜一念相応後」は、
「慶喜一念相応の後」
と読みます。
「相応」とは2つのものがピッタリあう、ということです。
よく「函蓋相応」と言われます。
「函蓋」とは、身と蓋、蓋と身のことです。
ふたとみがあわないというのは、蓋が身より小さかったら入りませんし、蓋が身より大きかったらがたがたで、箱になりません。
ですから、蓋と身がピッタリ合わなければなりません。
また「身分不相応」と言われるときは、
「身分不相応な服装しているね」、「身分不相応な車に乗ってるね」と言われます。
自分の立場と、服装や車が合わないということです。
また、「あの人とあの人は相応した夫婦だな」、「あの人とあの人は不相応な夫婦だな」とも言われます。
このように、2つのものが、ピッタリあうことを相応すると言います。
では、ここで「相応」するのは何と何なのでしょうか。
何が相応するの?
ここで相応するのは何と何かといいますと、
「機」と「法」とが相応します。
「法」とは阿弥陀仏の本願です。
親鸞聖人は「願に相応する」と言われています。
「機」とは、阿弥陀仏が建てられた本願は、すべての人をどうみてとられておるかといいますと、「逆謗」とみておられます。
これが「真実の機」です。
阿弥陀仏は、すべての人を「逆謗」とみて、それを助けようと本願を建てられています。
いつまでたっても晴れて満足できないのは、阿弥陀仏の本願と相応しないからです。
「相応しない」とはどういうことでしょうか。
「逆謗」とは絶対助からないものということです。
それなのに私たちは、何とかしたら何とかなれると思っています。
だから、本願と合わないのです。
それが、金輪際助からない逆謗であった、と知らされた時、本願と相応します。
蓋と身がピッタリあいます。
ところが私たちは、何とかしたら何とかなれると自惚れているから、願に相応せず、いつまでたっても流転を重ねるのです。
「相応」とは、蓋と身がピタッとあったことです。
本願でいうなら、逆謗の機と、それを助ける本願の法がピタッと一致した時。
これを願に相応したといわれます。
私は逆謗の屍と知らされた時、ピタッときます。
阿弥陀仏は、私たちを逆謗の屍と見てとられ、本願を建てられたので、ピタッと合うのです。
相応した時とは?
次に「慶喜一念相応後」の
「一念」とは、阿弥陀仏の本願に相応して、絶対の幸福に救われる極めてはやい時を言います。
親鸞聖人は、
「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす。
(親鸞聖人『教行信証』)
とおっしゃっています。
「信楽」とは、絶対の幸福のことですから、
「信楽開発」は、絶対の幸福になったことです。
「時尅」とは、時間と言っても同じです。
「極促」とは、極速と同じで、極めて速いということですから、
阿弥陀仏の本願に相応して、絶対の幸福に救われる何億分の一秒よりも速い時を「一念」といいます。
その時、人間に生まれてよかったという大きな喜びがおきますから、親鸞聖人は「慶喜」とおっしゃっています。
「慶喜一念相応後」の「後」は、なった時ということで、次の行に続きます。
このように、阿弥陀仏の本願通りに、一念で阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人間に生まれてよかったと生命の大歓喜の起きたことを「慶喜一念相応後」と親鸞聖人はおっしゃっています。