専雑執心判浅深 報化二土正弁立
原文 | 書き下し文 |
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専雑執心判浅深 | (専・雑の執心に浅・深を判じ) |
報化二土正弁立 | (報・化二土まさしく弁立したまう) |
目次
専・雑の執心に浅・深を判じ
これは源信僧都のお言葉です。
「専・雑の執心に浅・深を判じ」とは、
「執心」とは、信心のことです。
「専」とは、他力。
「雑」とは、自力。
「雑」は自力に決まっていますが、
「専」と書いてあったら他力とは限らず、自力の場合と他力の場合があります。
この場合の専は他力です。
ですから、他力の信心と自力の信心の浅深を判じ、ということです。
「自力の信心」というのは、一念で阿弥陀仏に救われるまでの信心を自力の信心と言い、
一念で絶対の幸福に救い摂られた信心を「他力の信心」と言います。
ということは、専雑の執心が一念で分かれるということです。
「浅深」とは、「浅い」と「深い」ということで、
「判じ」とは、水際立ててハッキリ教えられたということです。
ですから、「専雑の執心に、浅深を判じ」とは、
「自力の信心と他力の信心の違いを、水際立てて教えられた」ということです。
そして、深い他力の信心を獲るところまで進みなさいよ
と教えられています。
報・化二土まさしく弁立したまう
次に、「報化二土正弁立」というのは、
他力の信心を獲た人は、弥陀の「報土」へ往けるが、自力の信心の人は、「化土」へしか往けませんよ、ということです。
「報化二土」とは、「報土」と「化土」ということです。
「報土」とは阿弥陀仏のお浄土
「化土」とは浄土の近辺、片田舎のことです。
「正しく弁立したまう」とは、
この「報土」と「化土」の違いを、「ハッキリと分けて教えられている」ということです。
自力の信心と他力の信心の違いを明らかにせられ、その信心の結果の違いも「報土」と、「化土」と、鮮明に教えられたというのが、
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」の『正信偈』のお言葉の意味です。
ハッキリ救われたなんていうことあるの?
よく「ハッキリ救われたなんていうことあるのか」という人がありますが、
源信僧都は、自力の信心はこうだぞ。
他力の信心をえて救われたらこうだぞ。
ハッキリ水際立てて教えられています。
化土へ往けるの?
他力の信心をえた人は報土往生間違いありませんが、そこまでは色々な人があり、みんな自力の信心の人です。
そういう人は化土へゆけますよといわれて一生懸命善をやっていても、それにも色々あって、一通りや二通りではありません。
ちょうど、金持ちにも色々違いがあるようなものです。
千円貯金を持っている人、1万円持っている人、100万円持っている人など色々あって、この人たちは、同じ人ではありません。
中に借金持っている人もありますし、マイナスでなかったとしても、プラスにも色々あります。
善いたねまけば、善い結果が来るのは因果の道理、間違いありませんが、化土へ行けるほど善をやっている人、念仏称えている人は化土へゆけますが、悪しか造っていない人は、化土へは往けません。
結局、化土へ往けるかどうかは臨終、死ぬまで分かりません。
ところが、親鸞聖人の教えは、生きているとき、一念でいつ死んでも極楽参り間違いなしの絶対の幸福に助かってしまいますので、臨終には用事がありません。
ですから親鸞聖人は、生きているときに、他力の信心を獲るところまで進みなさいよ、と教えられています。
源信僧都が、自力の信心と他力の信心をハッキリ分けて教えられたことを称讃されて、私たちにも知らせたかった所は、ハッキリ水際立つということです。
そこまで進みなさいと教えられ、その水際をハッキリ教えられたのは源信僧都だったと、正信偈にほめたたえておられます。