弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
原文 | 書き下し文 |
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弥陀仏本願念仏 | (弥陀仏の本願念仏は) |
邪見驕慢悪衆生 | (邪見・驕慢の悪衆生) |
信楽受持甚以難 | (信楽受持すること甚だ以て難し) |
難中之難無過斯 | (難の中の難斯に過ぎたる無し) |
目次
阿弥陀仏のなされたお約束とは?
これは、
「弥陀仏の本願念仏は、
邪見・驕慢の悪衆生、
信楽受持すること甚だ以て難し、
難の中の難斯に過ぎたる無し」
と読みます。
(ここで「驕慢」の「きょう」は、
本来りっしんべんの憍ですが、
文字化けする可能性があるので
「驕」で代用しています)
まず「弥陀仏の本願念仏は」とは、この阿弥陀仏の救いは、ということです。
「弥陀仏」とは、阿弥陀仏です。
「本願」とは、約束のことです。
阿弥陀仏は、大宇宙の仏方がみな助けることができないと見捨てた私たちを「必ず信楽に助ける」と約束されています。
これを「阿弥陀仏の本願」といいます。
その阿弥陀仏のお約束通りに
「人間に生まれてよかった」という信楽(しんぎょう)の身に救われたら、助けてくだされた阿弥陀仏に、お礼の念仏を称えずにおれなくなります。
これが「本願念仏」です。
ですから「弥陀仏の本願念仏は」とは、
阿弥陀仏の本願に救われて、念仏する身になったことを言われていますから、
阿弥陀仏の救いは、ということです。
ところが次に、
「邪見・驕慢の悪衆生、
信楽受持すること甚だ以て難し、
難の中の難斯に過ぎたる無し」
と教えられています。
お約束の通り助からないと?
「信楽受持」とは、
阿弥陀仏が必ず信楽に助けると約束せられている通りに私たちが救われたことをいいます。
「信楽」は信心、「受持」は獲得と同じですから、
「信心獲得」と同じことです。
「信心決定」ともいいます。
『歎異鈔』では「無碍の一道」とも言われています。
今日の言葉で言いますと、「絶対の幸福」のことです。
私たちが人間に生まれてきたのも、苦しい人生生きるのも、
阿弥陀仏に救われて、絶対の幸福になるためです。
これが人生の目的です。
ところが親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われることは、甚だもって難しいと言われています。
みんな阿弥陀仏はお慈悲な仏さまだから、死んだら極楽に往けるだろう。
念仏も称えているし、地獄なんか堕ちないだろうと思っていますが、信楽受持していなければ、極楽には往けません。
蓮如上人は、このように教えられています。
この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(蓮如上人『御文章』)
みんな死んだら極楽と言っているけれど、極楽へ往けるのは、信心獲得している人だけですよ、ということです。
極楽へは誰でも彼でも往けるものではなく、信楽受持している人だけなのです。ところが、その信楽を受持することは、はなはだもって難しい、と親鸞聖人はおっしゃっています。
どれ位難しいの?
難しいことは、世の中に色々ありますが、
信楽を受持することは、どれほど難しいのでしょうか。
親鸞聖人は、世の中に難しいことは色々たくさんあるけど、難の中の難、難しいことの中でも、これに過ぎたるはない。
信楽を受持すること以上に難しいことはない、とおっしゃっています。
大学に入るのも、難しいのでみんな苦しみますし、マイホームを建てることも、難しいことです。
一生かけてマイホームを持ちたいと、みんな一生懸命働いて貯蓄しますが、それでもなかなか建ちません。
この世に難しいことは色々ありますが、そんなものくらいではないのです。
人生の目的を果たして絶対の幸福になるのですから、簡単だという方がおかしいのであって、難しくて当然です。
悪ばかり造っている私たちが、極楽浄土へ往って、仏になろうとしているのですから、こんな難しいことが、あるはずがありません。
信楽を受持することは、難の中の難、これに過ぎたるはなし。
これ以上難しいことはないんだよ、と親鸞聖人はおっしゃっています。
ではなぜ阿弥陀仏が、必ず救うとお約束されているのに、助けてもらうのが難しいのでしょうか。
なぜそんなに難しいの?
親鸞聖人は、
それは「邪見驕慢の悪衆生」だからなんだ
と言われています。
「衆生」とは、人間のことですから、
「悪衆生」とは、悪い人のことです。
どんな悪い人かというと、
「邪見な人」「驕慢な人」を悪衆生と言われています。
では「邪見な人」とはどんな人かというと、よこしまに見る人、正しく見られない人です。
何が正しく見られないのかといいますと、「阿弥陀仏の本願」です。
「絶対の幸福なんかあるはずがない」とか、
「この世で助かったということはあり得ない」とか、
「凡夫がそんなにハッキリ救われるものではない」と阿弥陀仏の本願が全然分からず、はねつけています。
「驕慢」とは、阿弥陀仏が見抜かれた本当の自分の姿が分からず、死んだら極楽、死んだら仏と思っている自惚れ心です。
大宇宙の仏方から、あれはどうしようもないと捨てられた私たちなのに、そんな自分だとは全然思いません。
簡単に、何とかしたら何とかなれると思っています。
難中の難などとは全く思っていません。
その自惚れ心が難中の難にするのです。
阿弥陀仏は、絶対に助かる縁手がかりのない者とみて、必ず助けると本願をたてておられます。
ところが私たちは、何とかしたら、自分の力で何とかなると思っているのですから、本願と合わないのです。
合わないということは、信楽を受持すること甚だもって難し、難しい中の難しい、これに過ぎたる難はない、ということになるのです。
この阿弥陀仏が見抜かれた私たちの真実の姿を知らせるのが大変なのです。
ではどうしたらいいの?
だから親鸞聖人は、信楽を受持することは、甚だもって難しいことなんだから、性根を入れて真剣に聞かなければなりませんよ、と教えられています。
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり (親鸞聖人『浄土和讃』)
「大千世界」とは大宇宙です。
大宇宙が火の海になったとしても、
そこを過ぎゆきてとは、突破してということです。
「仏の御名を聞く人は」とは、真実の仏法を聞く人は、
「ながく不退にかなうなり」
絶対の幸福になれるんだ、未来永遠の幸福になれるのだよ、と教えられています。
ですから、たとえ大宇宙が火の海になっても聞かねばならない。
聞けば絶対の幸福になれる。
たとえこの世が火の海原になっても、踏み破って聞く覚悟が必要ですよ、難中の難を突破しなければなりませんよ、と教えられています。
難中の難を突破すると?
阿弥陀仏に救われる一念は、金輪際助かる縁手がかりが断ち切られてしまう所ですから、その難中の難の鉄壁を突破する。
そこに蓮如上人が、
「あら、こころえやすの安心や。
あら、ゆきやすの淨土や」
易中の易とおっしゃる無碍の一道が開けるのです。
阿弥陀仏に救われた一念、
難中の難と、易中の易とが同時に知らされます。
その阿弥陀仏に救われた世界に飛び込むぎりぎりのところを、親鸞聖人は『正信偈』に教えられ、だから真剣に聞きなさい、
「必ず助かるぞ、広大無辺な世界が開かれるのだよ」
と教え勧められているのです。