帰命無量寿如来 南無不可思議光
原文 | 書き下し文 |
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帰命無量寿如来 | (無量寿如来に帰命し) |
南無不可思議光 | (不可思議光に南無したてまつる) |
目次
聖人90年の教えのすべてがおさまる正信偈
親鸞聖人90才
帰命無量寿如来
南無不可思議光
親鸞聖人のお書き作された『正信偈』は、
「正しい信心を、偈(うた)の形で明らかにされたもの」です。
「幸せになるには、正しいものを信じなさいよ」と90年の生涯、叫び続けられた方が親鸞聖人であり、『正信偈』には、その教えのすべてがおさまっています。
一般には、「その人がよいと思うものを、信じていればよいのだ、他人がとやかく言う問題じゃない」というのが常識でしょうが、聖人は、そのようには言われていません。
私たちが幸福になれる「正しい信心」と、不幸にする「迷信、邪信、偽信」とがあることを、明言されているのです。
しかも「正」という字は「一に止(とど)まる」と書くように、正しいものは一つしかない。二つも三つもあるものではありません。
そのたった一つの「正しい信心」を鮮明にされ、
「皆さんどうか、正信心を獲て、まことの幸せになってくれよ」
と教え勧められているのが、『正信偈』なのです。
朝晩、勤行で『正信偈』を拝読することは、親鸞聖人の教えを親しく聞かせていただくことですから、いかに大切かお分かりでしょう。
では、正しいものとは何か。
正しいものを信ずるとはどういうことなのでしょうか。
親鸞聖人自らが、正しい信心を獲得して、絶対の幸福に救い摂られた喜びを叫ばれているのが、冒頭の、
帰命無量寿如来
南無不可思議光
「親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました」
と言われているお言葉です。
どこにも「親鸞」とはありませんが、これは、「向かいのおじさんが無量寿如来に帰命した」と言われているのでもなければ、「うちの妻が不可思議光に南無した」と言われているのでもない。
聖人ご自身のことをおっしゃっているのですから、「親鸞は」ということになります。
本師本仏の阿弥陀如来
「無量寿如来」「不可思議光」とは、阿弥陀如来のことです。
阿弥陀如来は、
「阿弥陀仏」
「弥陀如来」
「弥陀」とも言われる仏さまのことです。
蓮如上人は、このように言われています。
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり
地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦様だけです。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。
しかし、大宇宙には、地球のようなものは無限と言っていいほどありますから、数え切れないほどの仏さまが大宇宙にましますのだと、お釈迦様は説かれています。
これらの仏方のことを、蓮如上人はここで「三世十方の諸仏」と言われているのです。
「三世十方」とは、仏教では大宇宙のこと。
大日如来や薬師如来、よく知られている奈良の大仏はビルシャナ如来と言われる仏ですが、皆、三世十方の諸仏のお一人です。
その大宇宙にまします仏方の、本師本仏が阿弥陀如来である、と言われている「本師本仏」とは、仏の中の王様、先生の仏、指導者のことで、すべての仏方は、皆、阿弥陀如来のお弟子ということになります。
お釈迦様も、「三世十方の諸仏」の中の一仏ですから、阿弥陀如来とお釈迦様の関係は、先生と弟子、師弟関係なのです。
弟子の使命は、先生の御心を一人でも多くの人に伝えること以外にはありませんから、弟子であるお釈迦様は、先生である阿弥陀如来のことばかり教えていかれました。
本師本仏と仰がれるのは、たくさんの凄い力がある、他の仏とは桁違いの仏徳をそなえておられるからです。
阿弥陀如来は、そのお徳、力に応じて色々なお名前を持っておられ、中でもよく言われる二つが、「無量寿如来」と「不可思議光如来」ですから、親鸞聖人は『正信偈』の最初に、阿弥陀如来のことを、この二つのお名前で呼ばれているのです。
救われた、助けられた
次に、「南無」はインドの昔の言葉、「帰命」は、中国の昔の言葉です。
周知のとおり、仏教はお釈迦様がインドで説かれ、中国に伝わり、韓半島を経て日本に伝来しました。
ですから、仏教ではインドの言葉、中国の言葉がよく使われています。
「南無」はインドの発音に漢字を当てた音標文字で、字そのものに意味はありません。それが中国に伝わり「帰命」という言葉に翻訳されたので、「南無」と「帰命」は同じ意味です。
日本の言葉では、
「救われた」「助けられた」
ということですから、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二行は、
「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」
と、同じことを2回おっしゃっているお言葉であることが分かります。
2回ということは、2回だけでなく何度も言わずにいられない、どれだけ書いても書き尽くせぬ喜びを、表されているのです。
日常生活でも、何度も同じことを言うことがありますね。
例えば、夜、お母さんが台所で食事の準備をしている時、突然、停電しました。
懐中電灯もなく真っ暗闇。1時間たっても、2時間たっても、電気がこない。
もう今晩は、食事もせずに寝るしかないのかとあきらめ、困り果てていたその時、家中の電気がパッとついたならば、
「ついた、ついた、ついた」
お母さんも、居間の子供たちも、書斎のお父さんも、口々に叫ぶでしょう。
大学入試でも司法試験でも、苦心惨憺の末にやっと受かった時の喜びはどうでしょう。
「受かった、受かった、やったやったー」と飛びはねます。
待って待って待ちわびて、求めても得られず苦しんでいたものが、獲られた時には、その喜びから何度でも同じことを言わずにいられないではありませんか。
では、親鸞聖人が『正信偈』の最初に、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と繰り返し叫ばれたのは、何が救われたからなのか。
どんなことを阿弥陀如来は助けられたのでしょうか。
「救われた」「助けられた」といっても、色々あります。
のどが渇いてカラカラの時、冷たい清水をふんだんに与えられ、ガブガブッと飲んだ。のどの渇きがいやされたのも、「救われた」といいます。
腹痛で転げ回っていたところ、名医の注射一本でケロッと完治したことも、「救われた」です。
遭難した冬山で死にかけたところを発見され、ヘリコプターで引き上げられたことも「助かった」といいます。
借金の返済に苦しみ、自殺の準備をしていた時、慈善家が何億と無償でくれたならば、やはり「助かった」です。
しかし、親鸞聖人が、阿弥陀如来に「救われた」「助けられた」と言われているのは、そんなことではありません。
確かに肉体の命や借金の重荷を救われた喜びは格別ですが、一時的です。
病気が治っても再発するかもしれませんし、別の病に襲われるかもしれない。
死ななくなったわけでは勿論ない。死ぬのが少し先に延びただけ。
永遠の救いというものは、この世にはありえないのです。
ところが、親鸞聖人の「阿弥陀如来に救われた、助けられた」とは、「未来永遠の、絶対の幸福に救い摂られた」生命の大歓喜であり、「人間に生まれたのは、これ一つであった」と人生の目的が成就した慶喜の叫びなのです。
死んでからの救いではありません
親鸞聖人の教えを、漢字4字で表された言葉が「平生業成」。
聖人九十年の教えを一言で、と尋ねられたら、「平生業成」と答えれば満点です。
ところが、その大事な平生業成という言葉が誤解されて使われているのが、悲しい現状です。ほとんどの人が「平生の行い」のように思っているのです。
では、正しい意味は、どういうことか。
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということです。
「業」とは、人生の大事業のこと。
大事業と聞きますと、徳川家康の天下統一の事業や、松下幸之助の業績などのことと思われるかもしれませんが、親鸞聖人が大事業とおっしゃっているのは、「人生の大事業」、言葉を換えると、「人生の目的」です。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きなければならないのか。
自殺してはいけないのか。
それは「これ一つのためであった」といえるものを「人生の目的」といい、達成した時に、「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜が起きるのです。
金メダルや、ノーベル賞を取ることは、確かに最高の栄誉です。
それぞれに、涙ぐましい努力があっての結果に違いありませんが、その喜びもどれほど続くでしょう。やがては色あせてしまいます。
「歴史に名前が残る」という人もありますが、残ったところで、死んだ本人にとっては、どんな意味があるのでしょう。
親鸞聖人がここで「大事業」とおっしゃっているのは、そういうことではありません。
「無碍の一道」へ出たことを、人生の目的と言われているのです。
何ものも碍りとならない絶対の幸福。
生きてよし、死んでよしの世界に出ることなのだと、親鸞聖人は、こう宣言されています。
念仏者は無碍の一道なり。
(『歎異抄』第七章)
それは色あせることのない、永遠に続く幸せです。
最高無比の喜びであり、満足なのです。
その人生の大事業が、「完成した」ということがあるのだ、ということが、業成の「成」です。
「死んだら極楽」
「死んだらお助け」ではないぞ、
生きている現在ただ今、無碍の一道へ出たという時が来るのだ、早くその人生の目的を完成しなさいよと教えられた方が親鸞聖人ですから、親鸞聖人の教えを「平生業成」といわれるのです。
『正信偈』の初めに、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、助けられたぞ」
と言われているのは、
「この世で助かったということがある、信仰に卒業があるんだ、死ぬまで求道ではないのだ」ということです。
あなたは、こんなことが信じられますか?
とても想像もできないでしょうが、これはしかし、平生業成の身に救い摂られた聖人の、言い尽くせぬ大歓喜であり、この「阿弥陀如来の救い」こそが「正しい信心」なのだ、と言われているお言葉なのです。