惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
原文 | 書き下し文 |
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惑染凡夫信心発 | (惑染の凡夫、信心を発しぬれば) |
証知生死即涅槃 | (生死即ち涅槃なりと証知せしむ) |
目次
「惑染の凡夫、信心を発しぬれば」とは?
惑染凡夫信心発
証知生死即涅槃
これは、
「惑染の凡夫、信心を発しぬれば、
生死即ち涅槃なりと証知せしむ」
と読みます。
「惑」とは、煩悩のことです。
世間では、買おうか買うまいか、結婚しようかしまいか、という時に使います。
それも煩悩ですが、それだけでなく、欲や怒り、愚痴の煩悩のことを、仏教では「惑」と言います。
「染」とは、染まっている、一つであるということです。
ちょうど、火と炭のような関係です。
炭に火がつくと、炭のまんまが真っ赤な火、火のまんまが炭になります。
ちょうどそのように、私から煩悩をとったら何も残りません。
これを煩悩具足の凡夫と言います。
「凡夫」とは、私たち人間のことです。
「具足」とは、それでできているということです。
私たちは、煩悩に目鼻をつけたようなものですから、煩悩具足の凡夫といわれます。
これを「惑染の凡夫」とおっしゃっています。
「信心が発きれば」とは、
この世で阿弥陀仏に救われれば、ということです。
その、煩悩に染まった私たちが、阿弥陀仏に救われ、信心がおきればどうなるのでしょうか。
「生死即ち涅槃なりと証知せしむ」とは?
親鸞聖人は、この世で阿弥陀仏に救われれば
「生死即ち涅槃なりと証知せしむ」
とおっしゃっています。
「証知せしむ」とは、明らかに知らされる、体験できるということです。
「生死即涅槃」とは、
「生死」とは人間として生まれている時の、人生の渦巻く苦悩、絶えない苦しみ悩みを、生死と言われています。
煩悩に目鼻をつけたような
惑染の凡夫が、阿弥陀仏に救われれば、
それがそのまま涅槃になるということです。
「涅槃」とは、絶対の幸福のことです。
ですから、生死即涅槃は、
死んでからではありません。
この世で阿弥陀仏に救われたことを言われているのです。
こころは浄土にあそぶなり
このことを親鸞聖人は、御和讃に
超世の悲願ききしより、
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり
とおっしゃっています。
「有漏」とは、煩悩のことですから、「惑染」と同じです。
「穢身」とは、汚れた体です。
阿弥陀仏に救われても、有漏の穢身は全くかわらない、煩悩に目鼻をつけた体は変わらないということです。
ところが、有漏の穢身はかわらねど、心は浄土にあそぶなり。
心は極楽いって遊んでいるような明るい心だ。
ということは苦しみ悩みの人間と、浄土へ往って遊んでいる心が、同時にあるのです。「超世の悲願ききしより」とは、阿弥陀仏の本願に救われてから。
「有漏の穢身」といったら、惑染の凡夫、煩悩具足の凡夫です。
苦しみ悩んでいる人間は変わりないわけです。
だけど、心は浄土へ往って遊んでいる。
それが「即」というこの一字は、そういうことを表しているのですが、とても想像できることではありませんから、阿弥陀仏に救われて知らされます。
全く同時、一体のものです。
言葉では言い表せない、言葉を離れた世界です。
「惑染の凡夫、信心を発しぬれば、
生死即ち涅槃なりと証知せしむ」
とは、煩悩に目鼻をつけた私たちが
この世で阿弥陀仏に救われれば
人生の渦巻く苦悩のまま、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快という、言葉を離れた世界を体験できるのだ、とおっしゃったお言葉です。
どんな人でも仏法を聞けば、必ずこの世で阿弥陀仏の救いにあうことができます。
そこまで仏教を聞いてください。