貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
原文 | 書き下し文 |
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貪愛瞋憎之雲霧 | (貪愛・瞋憎の雲霧) |
常覆真実信心天 | (常に真実信心の天を覆えり) |
譬如日光覆雲霧 | (譬えば日光の雲霧に覆わるれども) |
雲霧之下明無闇 | (雲霧の下明らかにして 闇無きが如し) |
目次
無明の闇と煩悩の関係は?
これは
「貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧、常に真実信心の天を覆えり、
譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し」
と読みます。
無明の闇と煩悩の関係を教えられた、親鸞聖人の教えの中でも特に重要なところです。
この一行前に、親鸞聖人は
「巳能雖破無明闇」
すでに無明の闇を破すといえども、と言われています。
親鸞聖人は29歳のとき、無明の闇が破れ、阿弥陀仏の救いにあわれました。
では阿弥陀仏に救われて、無明の闇が破れたらどうなるのか、ここで教えられています。
貪愛瞋憎とは?
まず「貪愛瞋憎」の
「貪」とは、「貪欲(とんよく)」といって欲の心です。
あれが欲しい、これが欲しい、何でも欲しい欲しいと思います。
なければないで欲しい、あればあったでまだ欲しい、私たちは欲の塊ですから、限りなく欲しがります。
次の「愛」とは「愛欲」のことです。
あの人が好きだ、あの人を愛している。
これも欲です。
その欲が邪魔されると、腹が立ちます。
これが「瞋恚(しんに)」です。
ここでは「瞋」と言われています。
怒りの心です。
「憎」は、憎むことで「愚痴(ぐち)」の心です。
怨んだり、ねたんだり、憎んだりします。
これらはみな「煩悩」です。
「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませるものということです。
煩悩と私たちの関係は?
私たちは「煩悩具足の凡夫」と言われます。
「具足」とは、それでできている、塊ということです。
雪だるまから雪をとったら何も残らないように、煩悩具足の私たちから、煩悩をとったら何も残りません。
「凡夫」とは人間のことですから、
私たちは、煩悩をとったら何も残らない、煩悩具足の人間だ、ということです。
煩悩でできている私たちは、煩悩をなくすことはできません。
その煩悩に108あるのですが、
その中の代表的な3つが、
貪愛瞋憎の欲と怒りと愚痴の心です。
そういう貪愛瞋憎の煩悩を、親鸞聖人は雲や霧にたとえて、
貪愛瞋憎の雲や霧が、常に覆っていると言われています。
それは救われても?
これは
「すでに無明の闇が破れたけれども」ですから、阿弥陀仏に救われてからのことです。
阿弥陀仏に救われた後も、
貪愛瞋憎の雲や霧が常に覆っている、
一つもなくならないということです。
それは「常に」ですから、今日は晴れ間が見えるということはありません。
厚い雲が途切れることなく覆っている、ということです。
ではどこを常に覆っているかというと、「真実信心の天」を覆っていると言われています。
「真実信心の天」とは、阿弥陀仏に救われた人の心です。
阿弥陀仏に救われて、いつ死んでも極楽参り間違いなくなったことを
「真実信心」といいます。
これを
「信心決定(しんじんけつじょう)」とも
「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」ともいいます。
「真実信心」を天にたとえて、阿弥陀仏に救われた人の心を、煩悩の雲や霧がいっぱい覆っていることを
「貪愛瞋憎の雲や霧が
常に真実信心の天を覆えり」
と言われています。
阿弥陀仏に救われたけれども、欲や怒りや愚痴の煩悩は少しも変わらない。
親鸞は、無明の闇(本願を疑っている心)はすでに破れて、なくなったけれど、欲や怒りや愚痴の煩悩はいっぱいあるということです。
そんな貪愛瞋憎の煩悩に常に覆われているけれども、親鸞は、絶対の幸福になった。
煩悩一杯が喜び一杯の心に救われた、と躍り上がって喜んでおられます。
どういうこと?
それはどういうことかといいますと、そのまま言ってもなかなか分かってもらえない。
しかしどうしても分かって欲しい、
本当は阿弥陀仏に救われなければ分かってもらえないことだけど、少しでも分かって欲しいと、親鸞聖人は、次にたとえで教えられています。
たとえるならば、
日光の雲や霧に覆われても
雲霧の下明らかにして、
闇なきがごとし。
雲や霧がいっぱい天を覆っていても、太陽が出れば、雲や霧の下は明るくて、闇はなくなります。
○ 太陽
~~~~~~~~~~~~~~~ 雲霧 愚 瞋 貪
~~~~~~~~~~~~~~~ 痴 恚 欲
明 煩悩
太陽がなければ、夜ですから、雲の下は暗い。
雲や霧があろうがなかろうが真っ暗がりです。
逆に、太陽が出ていれば、昼ですから、雲や霧がいくらあっても明るい。
だから雲や霧は関係ありません。
問題は、太陽が出ているか、出ていないかです。
太陽が出てない、とは、まだ本願に対する疑いが破れてない、一念の阿弥陀仏の救いにあっていないということです。
無明の闇とは後生暗い心とも言われます。
一念で私の心に太陽が輝くと、雲や霧がどんなにあっても、後生暗い心はなくなって、
「いつ死んでも極楽参り間違いなし」と、往生一定の大安心の心になれるのです。
貪愛瞋憎の煩悩は、一切浄土往生のさまたげになりません。
一番大事なのは?
ですから、貪愛瞋憎という煩悩と、無明の闇はまったく違います。
無明の闇がはれても、煩悩は増えもしなければ減りもしない。
無明の闇と煩悩は、全く関係ないということです。
これは非常に重要な、親鸞聖人の教えの特徴の中の特徴です。
私たちを苦しめているのは、煩悩ではなく、無明の闇なのです。
ですから一番大事なのは、
無明の闇が破れたかどうかです。
無明の闇が私たちの一切の苦しみ悩みの元ですから、その無明の闇が一念で破られれば、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜が必ず起きます。
無明の闇が破れたら、どんなに貪愛瞋憎の煩悩が逆巻いても、そのまま煩悩即菩提と喜びに変わって、浄土までたくましく生き抜かせて頂けることを親鸞聖人は、朝晩、正信偈で教えておられるのです。