普放無量無辺光 無碍無対光炎王
原文 | 書き下し文 |
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普放無量無辺光 | (普く無量・無辺光) |
無碍無対光炎王 | (無碍・無対・光炎王) |
清浄歓喜智恵光 | (清浄・歓喜・智恵光) |
不断難思無称光 | (不断・難思・無称光) |
超日月光照塵刹 | (超日月光を放ちて塵刹を照らす) |
一切群生蒙光照 | (一切の群生、光照を蒙る) |
目次
阿弥陀仏の12の偉大なお力
これは「普く無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智恵光、
不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす、
一切の群生、光照を蒙る」と読みます。
29歳で阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福(往生一定)に救い摂られた親鸞聖人は、正信偈の最初に
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」
と記され、今ハッキリ救われるのが
阿弥陀仏の本願であることを明らかにされています。
では、どうして親鸞聖人は、絶対の幸福に救われたのでしょうか。
親鸞聖人は
「親鸞がえらくて救われたのではないのだ、
ひとえに阿弥陀仏の偉大なお力あればこそ救われたのだ」
と、阿弥陀仏の偉大なお力をあげておられます。
お釈迦さまは、阿弥陀仏のお徳に十二あると
『大無量寿経』に説かれています。
これを「十二光」と言います。
「光」とは仏様のお力を「光」で表されます。
師である阿弥陀仏のお徳を、弟子であるお釈迦さまが、
十二通りに教えられているのが「十二光」です。
それが次の十二です。
(1)無量光
(2)無辺光
(3)無碍光
(4)無対光
(5)光炎王光
(6)清浄光
(7)歓喜光
(8)智慧光
(9)不断光
(10)難思光
(11)無称光
(12)超日月光
この「十二光」を普く放って、
「塵刹」とは、大宇宙に数え切れないほどある
地球のような世界のことですから、
「塵刹を照らす」とは、
私たちの住む世界を照らしていらっしゃる、ということです。
「一切の群生」とは大宇宙の生きとし生けるものすべて、
「光照を蒙る」ということは、
その光の中に生きている、阿弥陀仏のお力を受けている、
その偉大な阿弥陀仏の光明の照育によって、真の救いに導かれているのだ、
ということです。
(1)無量光
まず1番最初の「無量光(むりょうこう)」とは、量に限りのないお力、
阿弥陀仏には、限りなきお力があるということです。
阿弥陀仏のお力は計り知れない、底がない。
あの人はあんなことをやっているから助からないのではないだろうか、
と思うのは、阿弥陀仏が無量光の仏であることを疑っているということです。
私たちがどんな罪を造ろうが、それを助ける力が阿弥陀仏にある、ということが「無量光」ということです。
もし阿弥陀仏が
これくらいまでの罪なら助けるけれど、これ以上は助けることはできないぞと、お力に限界があれば、限界を超えたことをやれば、助からないということです。
親鸞聖人は、
願力無窮にましませば
罪業深重も重からず
と言われています。
「願力無窮にましませば」とは、
阿弥陀仏のお力に限りがないからということです。
「罪業深重も重からず」とは
どんなことをした者でも重くはない、助ける力があるのだよ。
お前たちのやる罪や悪業が、どんなに深くても重くても、必ず助ける。
そんなもの軽いものだ。
阿弥陀仏のお力に限りがないから、すべての人は救われるのだ、ということです。
それを阿弥陀仏の力に底を入れて、いや、あんなことしている者は助からないだろうと、阿弥陀仏の無量光を疑っている。
その本願に対する疑いを破るために、
それは間違いだぞ、阿弥陀仏のお力は限りがないのだぞ、
と教えられているのが、1番目の無量光です。
(2)無辺光
2番目の「無辺光(むへんこう)」とは
地球上はもちろん、この大宇宙どこにいても、阿弥陀仏の光は届いている。
阿弥陀仏のお力が行き渡らないところは大宇宙のどこにもない、
ということです。
大宇宙は大変広く、光の速さで何十億年進んでも、まだ先があります。
そんな所にも、阿弥陀仏の光は届いているのです。
ですから、ここにいたら助からないのではなかろうか
という所はありません。
大宇宙のどこにいようが、阿弥陀仏のお力は行き届いている。
私たちがどこにいても、阿弥陀仏の光は照らしてくだされて、
必ず救い摂って、無碍の一道へ出させようとしておられる。
この働きを「無辺光」といいます。
(3)無碍光
3番目の「無碍光(むげこう)」とは、
阿弥陀仏の光をさえぎるものはない、一切のものを通す光だ、ということです。
阿弥陀仏のお力をさまたげるものは何もない。
その力を邪魔することは誰もできないのです。
太陽の光は、山があれば、その後ろに影ができます。
太陽光は、さわりがあれば、それを通す力がないということです。
ところが阿弥陀仏のお力は、何ものも邪魔することができない、
どんなさわりもさわりになりません。
だからどんな罪の重い者でも助けてくだされる
救うことができるお力だ、ということです。
もしあんな恐ろしい罪を造った者は助けられない、ということになれば
その罪によってさえぎられる力ということになります。
心でこんなことを思っていたら助からないのではなかろうか、
こんな罪の重い者は助からないのではなかろうか、
と思うのは、阿弥陀仏のお力が「無碍光」だということを知らないということです。
その疑いを破るために、
阿弥陀仏のお力は、どんなものもさえぎることのできない
「無碍光」だと教えられているのです。
この「無碍光」に救われるから、救われた人は、何ものもさわりとならない、無碍の一道へ出られるのです。
(4)無対光
4番目の「無対光(むたいこう)」とは、
阿弥陀仏のお力は、比較するものがない、ということです。
最高無上、唯一、絶対のお力ですから、比較するものは、大宇宙にありません。
だからこの阿弥陀仏に救われたら、救われた人の喜びは、なにものも比較するものがない、絶対の幸福になれるのです。
親鸞聖人が、
「こういうお力をもたれた仏だから、
大宇宙の諸仏に見捨てられたこの親鸞を
助けてくだされることができたんだ」
と阿弥陀仏の威神力ををほめたたえられているお言葉です。