依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
原文 | 書き下し文 |
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依修多羅顕真実 | (修多羅に依りて真実を顕し) |
光闡横超大誓願 | (横超の大誓願を光闡する) |
目次
救われた体験といっても色々あるのでは?
この前の行の「帰命無礙光如来」とは、天親菩薩が、『浄土論』に、
「この天親は、阿弥陀如来に救われました」と言われたのを、親鸞聖人が引用されたお言葉です。
これは、天親菩薩の体験ですが、世間にも、よく「私は救われました、幸せになりました」と色々な体験談を話す人があります。
しかし仏教では、どんな体験も経典と合致しなければ、何の価値もありません。
教えに一致しなければ真実ではありませんし、本当に阿弥陀仏に救われた、とはいえませんから、真実の救いとは全く異なります。
ではどうすれば、真実の救いかどうか分かるのでしょうか?
真実の救いの基準は?
それで次に親鸞聖人は、
「依修多羅顕真実」
天親菩薩は、「修多羅」によりて、真実であることを明らかにされた、とおっしゃっています。
「修多羅」とは、お釈迦様の一切経のことです。
お釈迦様が35才で仏という最高の悟りを開かれて、80才でお亡くなりになるまでの45年間説かれた教えを仏教といいます。
そのお釈迦様が説かれた教えを書き残されたものが一切経です。
その一切経を「修多羅」とも言われます。
「真実を顕わし」とは、真実を明らかにされたということですから、修多羅に依りて真実を顕しというのは、教えによって、真実の体験を明らかにされた、ということです。
体験と言っても、色々ありますから、教えに合った体験かどうかが大切だということです。
天親菩薩は常に、教えを基準として真実を明らかにされたので、親鸞聖人はほめたたえておられるのです。
天親菩薩はそして、どうされたのでしょうか?
そして天親菩薩は
次に親鸞聖人がおっしゃっている、
「光闡横超大誓願」とは、横超の大誓願を光闡された、ということです。
「光闡」とは、明らかに説き広めるということですから、天親菩薩は、横超の大誓願を明らかに説き広められたという事です。
「横超の大誓願」とは、
「横超」とは他力のことです。
親鸞聖人は
「他力」と言うは如来の本願力なり。
(親鸞聖人『教行信証』)
「仏教で『他力』とは、阿弥陀如来の本願力を言うのである」
と教えられていますように、
他力といっても、他人の力や天地自然の力ではなく、阿弥陀仏の本願力だけを「他力」といいます。
「大誓願」とは、すばらしい誓いという事です。
この「大」は、小さいものに対して大きい、ということではありません。
素晴らしいということです。
「誓願」とは、誓い、約束ということで、阿弥陀仏の本願のことです。
では、阿弥陀仏の本願とはどんなお約束なのでしょうか?
阿弥陀仏の本願とは?
阿弥陀仏は、
「我を信じよ、必ず一念で51段高飛びさせて、正定聚の身にしてみせる。そしてわが浄土に生まれさせる」
というお約束をしておられます。
「正定聚」とは、まさしく仏になるに定まった人たちということで、死んだら仏になるに定まった位です。
そんな正定聚に一念で高飛びさせてみせる、というすごいお約束は、他の仏にはとてもできない約束ですから、「大誓願」とおっしゃっているのです。
天親菩薩はこのように、阿弥陀仏の本願に救われて、生涯、弥陀の本願一つを明らかにされたということです。
その天親菩薩のご苦労があったなればこそ、親鸞、阿弥陀仏の本願に救われる事ができたのだと、天親菩薩の功績をたたえておられる『正信偈』のお言葉です。