道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
原文 | 書き下し文 |
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道綽決聖道難証 | (道綽は聖道の証し難きことを決し) |
唯明浄土可通入 | (唯浄土の通入す可きことを明す) |
目次
道綽禅師とは?
これは
「道綽は聖道の証し難きことを決し、
唯浄土の通入す可きことを明す」
と読みます。
「道綽」とは道綽禅師という方のことです。
親鸞聖人は、お釈迦さまの説かれた仏教を間違いなく伝えられたと、非常に尊敬しておられた方が7人おられます。
これを七高僧と言われますが、その4番目が道綽禅師です。
道綽禅師は、七高僧の3番目の曇鸞大師が亡くなられてから少し後に、中国にあらわれられた方です。
最初、道綽禅師は、お釈迦さまがお亡くなりになる直前に説かれた『涅槃経』が、釈尊の一番教えたかったことだと信じて、涅槃宗という教えを勉強しておられました。
その道綽禅師が、たまたま、曇鸞大師がおられた玄忠寺へ訪ねられ、曇鸞大師の教えられたことを知られます。
そして、これは私も曇鸞大師の教えに従わなかったらとうてい助からない、と思われて、それを縁として、涅槃宗を捨てて、阿弥陀仏に帰依されるようになった方です。
曇鸞大師は『観無量寿経』によって、真実の仏法を知られたということで、道綽禅師も『観無量寿経』を真剣に学ばれるようになりました。
そして、その『観無量寿経』を道綽禅師が解釈されたのが、有名な『安楽集』という本です。
この『安楽集』の中に、道綽禅師が教えられたことを、親鸞聖人が正信偈のここに書かれたわけです。
この『安楽集』の中に、最も力を入れられて教えられている、大切なところは何かといいますと、
「聖道の証し難きことを決し、唯浄土の通入す可きことを明らかにされた」ということなのです。
これはどういうことなのでしょうか?
どんな仏教の宗派も究極的には同じ?
分けのぼる ふもとの道は異なれど
同じ高嶺の月を見るかな
という言葉がありますが、
色々な宗教があるのは、こういう道もあれば、こういう道もある。
道はそれぞれ違うけど、同じ山の頂上へいって、真如の月を見るのは同じだ。
同じ宇宙の真理を、ある人は、神と言い、ある人は、仏と言う。
キリスト教でもイスラム教でも、仏教でも、究極的には同じところにたどりつくのだ、という宗教観を持っている人が、多くあります。
仏教でいえば、色々宗派が分かれていても、同じお釈迦さまが説かれたことだから、登る道が違うだけで、最後は同じ頂上へたどりつくのだ、という仏教観を持っている人があります。
本当にそんなことが言えるのでしょうか?
仏教を2つに分けると?
仏教とは、お釈迦さまが、35歳の時に仏のさとりを開かれて、80歳でお亡くなりになるまで、45年間教えられたことを仏教と言います。
その教えのすべては、一切経に書き残されています。
この釈迦一代の教えを、「小釈迦」と言われ、「八宗の祖師」と尊敬されるインドの龍樹菩薩は、一切経を何回も読まれた結果、お釈迦さまの説かれた仏教は、2つになると教えられています。
それが「難行道」と「易行道」の2つです
「難行道」とは、修行が非常に難しい教えです。
「易行道」とは、行が非常に易しい教えです。
このように教えられたのが龍樹菩薩です。
この道綽の先生の、中国の曇鸞大師も同じく、釈迦45年間の教えは2つになると、教えられています。
それは、自力の仏教と、他力の仏教の2つです。
「自力」「他力」という言葉を、初めて使われたのは曇鸞大師です。
龍樹菩薩が難行道といわれた仏教を
曇鸞大師は、自力の仏教と言われ、
龍樹菩薩が易行道といわれた仏教を
曇鸞大師は、他力の仏教と言われています。
それを道綽禅師は『安楽集』に、やはり、龍樹菩薩や曇鸞大師と同じく、お釈迦さまの教えられた仏教に2つある。
1つは「聖道門仏教」、もう1つは「浄土門仏教」と言われています。
龍樹菩薩・曇鸞大師が、
難行道自力仏教といわれた仏教を
道綽禅師は聖道仏教と言われています。
龍樹菩薩・曇鸞大師が、
易行道他力仏教といわれた仏教を
道綽禅師は、浄土仏教と言われています。
名前はそれぞれ違いますが、仏教にはこのように2つあるということは、龍樹菩薩も曇鸞大師も、道綽禅師も共通して教えられています。
龍樹菩薩 曇鸞大師 道綽禅師
難行道 … 自力 … 聖道門
易行道 … 他力 … 浄土門
それで親鸞聖人も、正信偈に同じく教えられているのです。
「聖道の証し難きことを決し」とは?
「道綽は聖道の証し難きことを決し」
といわれている「聖道」とは、聖道仏教のことです。
「証し難き」とは、さとりを開くことができない、ということです。
正信偈の龍樹菩薩のところでも教えられていましたように、龍樹のような方でも、「私はこの仏教ではとても助からない」と言われています。
龍樹菩薩が、
「難行道では行が難しくてとても助かるまで行ができない。易行道の仏教に入って助かった」
と告白されていますから、曇鸞大師も自力の仏教では助からないと言われています。
ですから道綽禅師も、聖道仏教では助からないと教えられています。
「難しい」と書いてあると、頑張れば何とかなるように思えるかもしれませんが、そうではありません。
聖道門の仏教では、さとることができない、助からない、ということです。
このようにハッキリ断言されたということが
「決する」ということです。
助からないぞとハッキリ言い切られた、ということです。
もし頑張ってやれば何とかなれる人があるのなら、そんな断言まではできません。
これからどんなすぐれた人が現れて来るか分かりませんから、これでは助からないのだと決することはできないわけです。
ところが道綽は、ハッキリと『安楽集』に言い切られています。
ですから聖道仏教では、もう道は絶えているんだ、そこから先はいけないんだ、ということです。
仏教を山だとすると、龍樹菩薩も曇鸞大師も道綽禅師も、頂上へ行く道を2つに分けられて、それは2つしかないんだ、というような教え方です。
そして普通なら、仏教なんだから、どちらの道でも頂上へ行けると思うのですが、
道綽禅師は、聖道仏教の道は、証し難きことを決す
ハッキリ助からないと教えられています。
難しいけれども、頑張れば何とか頂上へ行けるんだ、と教えられているのではありません。
どれだけこの道を行っても頂上へ行けないんだ、と言い切られているのです。
「決す」というのは、道綽禅師でなければ言えないし書けなかった、さすがは道綽禅師だ、と親鸞聖人は、尊敬しておられるのです。
仏教を2つに分けるのなら、龍樹菩薩も曇鸞大師も分けておられますが、道綽禅師は助からないのだとすぱっと言い切られた、決せられた。
このような所が道綽禅師のすばらしいところだと、親鸞聖人は尊敬してやまないのです。
では助かる道は?
次の「唯浄土の通入す可きことを明す」にも、このような道綽禅師の教えは明らかです。
「唯」とはだ一つ。
二つも三つもあるというのではありません。
こちらは難しい、こちらは易しい、ということなら、易しいか難しいかの違いだけで、頂上へ行く道は、2つあることになります。
ただ一つと言えません。
ところが、道綽禅師は、聖道仏教では助からないんだと言い切られた、ということは、助かる道は、ただ一本しかないということです。
それが浄土仏教ですので、ここでは「浄土」と言われています。
この仏教ただ一つなんだ。
「通入」とは、通って入るということですから、極楽浄土へ往ける、ということで、助かるということです。
本当に救われる、ただ一つの助かる道を明らかにされた。
聖道仏教では助からないと決せられ、
本当に救われるたった一本の道を明らかにされた。
このように道綽禅師が教えられたので、親鸞聖人は、これだけハッキリ教えて頂かなかったら、親鸞迷ったであろう。
このようにハッキリ教えてくだされなかったら、どうしてハッキリ助かることができただろうか。
道綽禅師を七高僧の一人として尊敬されて、その教えのすばらしさを、親鸞聖人は、まずここに教えられています。