与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
原文 | 書き下し文 |
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与韋提等獲三忍 | (韋提と等しく三忍を獲) |
即証法性之常楽 | (即ち法性の常楽を証せしむ といえり) |
目次
阿弥陀仏に救われたイダイケ夫人
まず親鸞聖人が「韋提と等しく三忍を獲る」と言われている「韋提」とは、韋提希夫人のことです。
イダイケ夫人は、約2600年前、お釈迦さまご在世の昔、インドの王舎城に住んでいた、ビンバシャラという王様の妃でした。
その韋提希が、我が子によって牢屋に入れられ、地獄の苦しみを受け、のたうち回っていたとき、お釈迦様のお導きによって、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、大慶喜の身になったことが、『観無量寿経』に説かれています。その韋提希夫人を、親鸞聖人は「韋提」と言われています。
ですから、「韋堤と等しく三忍を獲る」とは、
「阿弥陀仏の本願に一念で救い摂られたならば、韋提希夫人と等しく、三忍を獲られるのだよ」という親鸞聖人のお言葉です。
では「三忍」とはどんなことでしょうか。
三忍とは?
「三忍」とは
「忍」とは「刃の下の心」と書きますように、今まさに刀で首を切られようとしている時でも変わらない心、ビリッとも変わらない心です。
ですから、三つの変わらない心を「三忍」といいます。
「喜忍」
「悟忍」
「信忍」
の3つの心をいいます。
救われたと同時に、三忍の心になりますから、喜忍の心になって、悟忍になるとか、悟忍の心になって、信忍の心になる、というような順番はありません。
言葉にするときには、どれかが先になり、真ん中になり、後になりますが、順序は問題ではありません。
「喜忍」とは「喜」は喜び、「忍」は心ですから、
阿弥陀仏に救われたならば、非常に大きな喜びが起きるということです。
その喜びを親鸞聖人は、「広大難思の慶心」とか、「大慶喜」とおっしゃって、「広かったぞ、大きかったぞ、想像もできない喜びだぞ」と叫んでおられます。
「悟忍」とは、仏智をさとらせて頂いた心です。
「悟」とは迷いに対する言葉で、迷っていた時は、知らなかったことが、「知らなんだ、知らなんだ」と知らされます。
「こんなこととは知らなんだ、知らなんだ」と、阿弥陀仏に救われるまで知らなかったことを、知らなんだ知らなんだと知らされます。
「信忍」とは、疑いの心がツユチリ程もなくなった心です。
喜忍─大きなよろこびの心
悟忍─仏智を悟らせていただいた心
信忍─ツユチリ程の疑心も
なくなった心
「疑煩悩」と言われる疑いと、
「疑情」と言われるものと、二つあります。
「疑煩悩」とは、人や物を疑う心です。
「あの人は約束どおりに金を返してくれるだろうか」とか、「これはニセのダイヤではなかろうか」などと疑う心で、これは死ぬまでなくなりません。
「疑情」とは、「本当に助けて下さるのだろうか」、「ひょっとしたら、地獄へ堕ちるのではなかろうか」と、弥陀の本願を疑っている心です。
この疑心は、弥陀に救い摂られた一念で無くなります。
疑煩悩─人やものを疑う心、
死ぬまでなくならぬ。
疑情──本願を疑う心で、
無明の闇とも言われ、
一念でなくなる。
「信忍」とは、この疑情がツユチリほども無くなった心を言います。
弥陀の本願まことであったと、ツユチリほどの疑いがなくなります。
阿弥陀仏に救われたかどうか、疑いが晴れたか、晴れていないか、これ一つで決まることを「信疑決判」といいます。
このように、阿弥陀仏に救い摂られると、どんな人でも韋提希夫人と同じく、「喜忍」「悟忍」「信忍」の三つの心を頂くことを、親鸞聖人は、
「韋提と等しく三忍を獲る」と教えておられるのです。
では、この世で三忍を頂いた人は、死んだらどうなるのでしょうか?
法性の常楽を証せしむ
次に、「即ち、法性の常楽を証せしむ」
と言われている「即ち」とは、
「船に乗れば即ち、彼の岸に着く」というときの「即ち」で、やがて必ずそうなる、ということです。
「法性の常楽」とは、弥陀同体のさとり、
「証せしむ」とは、開かせて頂くということです。
ですから、「韋提と等しく三忍を獲、即ち法性の常楽を証せしむ」とは、
「この世、一念で阿弥陀仏に救い摂られたならば、韋提希夫人と等しく喜悟信の三忍を獲て、死後は必ず弥陀の浄土へ往って、弥陀と同じ仏のさとりを開くことができるのだよ」とおっしゃった、親鸞聖人のお言葉です。