本願名号正定業 至心信楽願為因
原文 | 書き下し文 |
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本願名号正定業 | (本願の名号は正定の業なり) |
至心信楽願為因 | (至心信楽の願を因と為す) |
目次
ここで親鸞聖人が教えられたかったこと
これは親鸞聖人が、名号にどんな働きがあるかを教えられたお言葉です。
「本願の名号は正定の業(ごう)なり、
至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因と為す」
と読みます。
「本願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本願」は「誓願」とも言われますように、お約束のことですから、
阿弥陀仏のなされたお約束ということです。
阿弥陀仏はどんなお約束をなされているかといいますと、
「どんな人も 必ず絶対の幸福に救い摂り、浄土に生まれさせる」
というお約束をなされています。
そのお約束を果たすために、
阿弥陀仏は、約束を果たす力のあるものを作らなければなりませんでした。
それが「本願の名号」といわれている「名号」です。
「名号」とは、南無阿弥陀仏の六字です。
では、この六字の「名号」には、どんな働きがあるのでしょうか?
名号の働きとは?
親鸞聖人は次に
「正定の業なり」
と教えられています。
「業(ごう)」とは、働き、とか、力ということですから、
「本願の名号は正定の業なり」とは、
本願によって作られた名号には、
「正定」にする働きがある、ということです。
「正定」とは、正定聚のことです。
さとりといいましても、低いものから高いものまで52あります。
これを「さとりの52位」と言います。
40段目までは「退転位」といって、がらっと崩れることがあります。
41段より上は「不退転位」といって、崩れることはありません。
その一番上の52段目が、仏のさとりですから、
「仏覚」といいます。
これ以上のさとりはありませんから「無上覚」ともいいます。
「正定聚(しょうじょうじゅ)」とは、その1段下の51段目の位をいいます。
何があっても崩れることはありませんから、
「正定聚不退転」とも言われます。
正定聚のすごさ
このさとりの52位は、1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違うといわれる、大変な違いがあります。
いかにさとりを開くのが大変なことかわかります。
禅宗の開祖とされる有名な達磨は、壁に向かって9年間、手足がくさって切り落とさねばならないほど修行したと言われます。
それでも30段程度の悟りであったといいます。
また、中国で天台宗を開いた天台(智ぎ)は、臨終に10段より下までしか悟れなかったと告白して死んでいます。
今日まで、52段の仏のさとりを開かれたのは、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるように、地球上ではただ、お釈迦様お一人なのです。
ところが、名号が正定業であるということは、51段の位まで一念で高飛びさせる力が名号にあるという、驚くべきことなのです。
「正定聚」は「正定聚不退転」とも言われますように、絶対に崩れることがありませんので、今日の言葉で「絶対の幸福」と言います。
私たちの幸せは、今日あって明日なき幸せばかりです。
今日の一家団らんも、急に誰か一人事故にあえば、幸せな家庭が崩壊してしまいます。
そんな、いつ崩れるかわからない幸せばかりだから、崩れるのではなかろうかという不安が、常にあるのです。
ところが「正定聚不退転」は、崩れることのない絶対の幸福ですから、名号を頂く一つで、絶対の幸福(浄土往生間違いない身)になれるのです。
南無阿弥陀仏の六字の名号には、私たちを一念で絶対の幸福にし、いつ死んでも往生即成仏させる働きがある、ということです。
このことを蓮如上人は、
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり。(御文章五帖)
と教えられています。
南無阿弥陀仏といえば、漢字でいえばわずか六字だから、一念で「正定聚不退転」にするすごい力があるとは、とても思えないだろう。
ところが南無阿弥陀仏の六字の中には、この上ない、甚だ深い、広大な功徳利益があるのだ。
どんな人をも絶対の幸福にする限りないお力があるのである、ということです。
名号は、阿弥陀仏が大宇宙の宝を全部おさめて完成されたのです。
どうすれば正定聚になれるの?
阿弥陀仏は、何のために名号を作られたかというと、手元で見て楽しむためではありません。
私たちに与えるために作られたのです。
名号を私たちが頂くと、信心になります。
これを信楽ともいわれ、信楽の心になれば、正定聚の身になれます。
名号を娘にたとえると、
娘と結婚できたら、その娘は嫁となります。
子供を産みますと母になります。
名前がかわるだけで、体はかわりません。
娘の時にでべそだったら、嫁になっても母になってもでべそです。
ちょうどそのように、南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお手元にある時は名号といわれますが、私たちが頂くと、信心(信楽)になります。
お礼の言葉となって、南無阿弥陀仏と称えたら念仏です。
名前は変わりますが、体は一つです。
名
号 娘
\
念 信
母 仏←──心 嫁
ところが、隣にどんなにきれいな娘がいても、結婚しなければ私と関係ありません。
問題は、結婚したかどうか、娘を獲得して、嫁となったかどうかが肝要です。
名号がいくら阿弥陀仏のお手元にできあがっていても、私たちが頂かなければ正定聚にはなれません。
一念で名号を頂いて、正定聚になったのを信心といい、これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といわれますが、一念で名号を受け取ったかどうかが最も大事なところですので、蓮如上人は
たのむ一念の所肝要なり。(御一代記聞書)
と言われています。
「肝要」とは「要の中の要」ということです。
「要」はいくつかあっても「要の中の要」は、一つしかありません。
これより大事なものはないことを、仏教で「肝要」と言われます。
親鸞聖人の教えの最も大事なところは、名号を頂いて絶対の幸福に救われる
「信の一念」なのだ、
だからはやく、名号を頂いて、正定聚不退転になりなさい、と蓮如上人は教えられています。
では、どうして名号にそんなすごい働きがあるのでしょうか。
なぜそんなすごい働きがあるの?
それについて親鸞聖人は、次に、
「至心信楽の願を因と為す」
と教えられています。
「至心信楽の願」とは、阿弥陀仏の18願のことです。
「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
と誓われた阿弥陀仏の本願のことを、親鸞聖人は「至心信楽の願」と言われています。
至心信楽の願を因とするということは、南無阿弥陀仏の名号は、阿弥陀仏の本願を設計図として、それに基づいて作られたのだ、ということです。
船を作るときでも、まず設計図があって、その設計図にしたがって船が造られます。
設計図と異なる船は造られません。
設計図通りの船が造られます。
本願の設計図が因で、南無阿弥陀仏は果ということは、
「どんな人も 必ず名号を与えて絶対の幸福(信楽)に救う」
というお約束のとおりに作られた名号だから、どんな人でも名号をいただけば、絶対の幸福(正定聚)になれるのだ、ということです。
これを「至心信楽の願を因と為す」と言われています。
親鸞聖人は、
「本願の名号は正定聚にする働きがある、どうしてそんなすごい働きがあるかというと、至心信楽の願を因としてできあがったからだ。
親鸞が救われたのは、その本願の通りに作られた名号を頂いたからなんだよ」と救われたたねあかしをしておられるお言葉です。