三不三信誨慇懃
原文 | 書き下し文 |
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三不三信誨慇懃 | (三不・三信の誨、慇懃にして) |
目次
阿弥陀仏に救われていない人の3つの心
これは、親鸞聖人が、道綽禅師が教えられたことを書かれたお言葉で、
「三不三信の誨、慇懃にして」
と読みます。
「三不三信」とは、「三不信」と「三信」、
「誨」とは、教えということです。
「慇懃」とは、懇ろに、丁寧に、ということですから、
「道綽禅師は、三不信と三信の違いを懇ろに、丁寧に教えて下された」
と親鸞聖人が言われているお言葉です。
「三不信」とは、まだ阿弥陀仏に救われていない人の心です。
阿弥陀仏に一念で絶対の幸福に救われるまでを「信前」、一念で救われてからを「信後」と言います。
「三不信」とは、信前の人の心の状態で、
「自力の信心」のことです。
「不」は、欠点ということで、自力の信心には、三つの欠点がありますから、「三不信」と言われているのです。
その三つの欠点について、親鸞聖人は『ご和讃』に、次のように教えておられます。
不如実修行といえること 鸞師釈してのたまわく
一者信心あつからず 若存若亡するゆえに
二者信心一ならず 決定なきゆえなれば
三者信心相続せず 余念間故とのべたまう
まず「不如実修行といえること 鸞師釈してのたまわく」とは、
自力の信心とはどんなものか、曇鸞大師が教えられている、ということです。3つあります。
三不信
不淳 (あつからず)
不一 (一ならず)
不相続(そうぞくせず)
1「信心淳からず」とは?
最初の「信心淳からず」とは、
「淳」はあついということですから、あつくない、薄いということです。
薄いから、浅いのです。
「浅い」のは、知った覚えたと、合点しているだけの信心ですから、「若存若亡」するのだ、と言われています。
「若存若亡」とは
「在るが若く、亡きが若く」とありますように、
ある時は助かるかなと思ったり、ある時はこれじゃ助からないかなと思います。
また、何かちょっとした体験でもすると、信心を獲たように思いますが、腹でも立って、嫌な心が出てくると、こんなことではまだ獲られてないのではなかろうか、と思う心を言います。
一念までそういう心がなくなりません。
信心があつくないと、そういう若存若亡が起きてきます。
信心あつくないのは、若存若亡する信心です。
では、2番目の「信心一ならず」とはどんな心でしょうか?
2「信心一ならず」とは?
次の「信心一ならず」とは、
真実の信心ならば、「すべての仏が呆れて逃げた私を救いたもうのは、弥陀一仏しかなかった」と弥陀一仏に心が一つになりますが、救われる前は、それがハッキリしません。
だから、諸仏や菩薩や諸神に心をかけたり、自分のやった善や称えた念仏で助かるのではないか、という心が出てきます。
これを「一ならず」と言われています。
こんな信心には、明らかに決定した、ということがありませんから、「決定なきゆえなれば」と言われています。
では、3番目の「信心相続せず」とはどんな心でしょうか?
3「信心相続せず」とは?
最後に「信心相続せず」とは、「続かない」ということです。
「余念間故」するからです。
「余念間故」とは、色々な念いがまじってくるということで、説法を聞いている時は助かったように喜んでいますが、家に帰ると「どうもこんな心が出るようでは」と、不安な心が出てきて喜びが続きません。
寺は照る照る 道々曇る
家に帰れば 雨風じゃ
という歌がありますが、喜びが続かないと、「こんなことでは助からんのではなかろうか」と、自分の信心に疑いが出てきます。
信心が続かないのです。
このように、自力の信心には
「信心淳からず」
「信心一ならず」
「信心相続せず」
という三つの欠点がありますから、「三不信」と教えられているのです。
では、阿弥陀仏に救われた人はどんな心なのでしょうか?
阿弥陀仏に救われた人の心は?
次に「三信」とは、信後の心を言います。
「三不信」とは全く反対で、
「淳心」「一心」「相続心」の三つのことです。
他力の信心を言われたものです。
三信 │三不信
淳心 │ 不淳 (あつからず)
一心 │ 不一 (一ならず)
相続心│ 不相続(そうぞくせず)
「淳心」とは、
ツユチリ程の疑いもなく弥陀に救い摂られた、若存若亡の無くなった心を言います。
「一心」とは、
私を助けて下さる仏は弥陀一仏しかなかったと、心が一つになったことです。
「相続心」とは、
その一心が死ぬまで続くことです。
ツユチリ程の疑いもなく弥陀に救い摂られ、心が一つになると、寝てもさめても、阿弥陀仏に助けて頂いたご恩をどうするか、ずーっと続きます。
このように、親鸞聖人が朝夕、
「道綽禅師は、三不信と三信の違いを、詳しく丁寧に教えられた」
と、教えられているのは、
「道綽禅師も、救われる前はこうだ、救われたらこうだと、信前信後の水際を懇ろに教えておられる。
『自力の信心』と『他力の信心』の違いを、丁寧に言っているのは、親鸞だけではないのですよ」と言われている正信偈のお言葉です。