天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
原文 | 書き下し文 |
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天親菩薩論註解 | (天親菩薩の論句を註解して) |
報土因果顕誓願 | (報土の因果は誓願なり と顕したまう) |
目次
曇鸞大師の主著
ここは、親鸞聖人の非常に尊敬しておられた曇鸞大師が、どのようなことを教えられたのか、教えられているところです。
天親菩薩論註解
報土因果顕誓願
まず「天親菩薩の論を註解して」の
「天親菩薩の論」とは、天親菩薩の主著『浄土論』のことです。
「註解」とは、解釈のことですから、曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』を解釈されて、『浄土論註』を書かれたことを言われています。
『浄土論註』は略して『論註』ともいわれ、曇鸞大師の主著となっています。
その『浄土論註』に、曇鸞大師はどんなことを教えられ、明らかにされたのでしょうか。
曇鸞大師は何を教えられたの?
親鸞聖人は、それを、
「報土の因果は誓願なりと顕らかにされた」
と言われています。
「報土」とは
「報」は報い、「土」は世界のことで
阿弥陀仏のご苦労に報われてできた世界ですから、阿弥陀仏の極楽浄土を「報土」といいます。
阿弥陀仏のご苦労とは「誓願」のことです。
「誓願」とは阿弥陀仏の誓い、約束のことですから、阿弥陀仏の本願のことです。
ですから、阿弥陀仏の本願によってできた世界が、極楽浄土です。
報土、極楽という結果は、誓願が因となってできたということです。
(因) (果)
┌──┐ ┌──┐
│本願│──→│報土│
│誓願│ │極楽│
└──┘ └──┘
このように、曇鸞大師は、誓願と報土は因と果の関係であることを明らかにせられた。
曇鸞大師は『浄土論註』で、
「報土の因果は誓願なり」と明らかになされた、すばらしい。
と親鸞聖人はおっしゃっているのです。
では私たちは、どうすれば報土へ往生できるのでしょうか。
ではどうすれば極楽へ往けるの?
それを知るには、阿弥陀仏は本願に、どのようにお約束されているのか知らねばなりません。
阿弥陀仏の本願は、
名号を与えて、この世の「じごく」を「ごくらく」に救う、というお約束です。
この世のじごくとは、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか分からず、毎日が不安で暗いことをいいます。
「人間に生まれてよかった」
という生命の歓喜がなく、
「私ほど業なものはない」
と他人を恨み世間を呪い、
「こんなに辛いのなら死んだ方がましだ」と苦しむ暗い生活が、この世のじごくです。
自分の業(行為)で苦しんでいるから、「自業苦」と書きます。
今の自業苦に苦しんでいる人は、死んだならば、本当の地獄に堕ちていきます。
自業苦から地獄への綱渡り、この世の苦から未来の苦へとうつっていくのです。
(因) (果)
┌────┐ ┌──┐
│自業苦 │──→│地獄│
│じごく │ │ │
└────┘ └──┘
お釈迦さまは何と?
これを『大無量寿経』に
従苦入苦 従冥入冥
(『大無量寿経』)
「苦より苦に入り、冥(やみ)より冥(やみ)に入る」
と説かれています。
「苦より苦に入る」とは、
今、自業苦で苦しんでいる人は、死んだ後も、地獄の苦を受けるということです。
苦しみから楽しみの世界へは行けません。
苦しみから苦しみへと堕ちて行く、ということです。
「冥(やみ)より冥(やみ)に入る」の
「冥(やみ)」とは、暗いということです。
何に暗いのかといいますと、人生の目的に暗い、ということです。
何のために生きているのか分からない、真っ暗闇の生活を送っている人は、現在の心が暗いから、死んでまた暗い地獄に堕ちて行く、ということです。
この世はどうにもならない自業苦なのに、死んだら極楽というわけにはいきません。
では極楽へは往けないの?
このように、今が自業苦で苦しんでいる私たちを、
阿弥陀仏は、この世から「ごくらく」にしてみせる、とお約束されています。
死んでから往くのは、極楽と書きますが、
今のごくらくは「業苦楽」と書きます。
業の苦しみから解放され、楽しく日暮らしできるのが、この世の業苦楽です。
現在、阿弥陀仏の本願に救われて大満足させられたならば、今が業苦楽になります。
親鸞聖人は、
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり
と言われています。
「阿弥陀仏の本願まことだった」と、救い摂られた時から、もう我々は、迷いの人間ではなくなるのだ。
欲や怒りの煩悩は少しも変わらないままで、弥陀の浄土へ往って遊んでいるように、明るく楽しく生かされる、と教えられています。
このように、阿弥陀仏から名号を頂いて
今が業苦楽に生かされたことを
「信心獲得」とか
「信心決定」ともいいます。
その大安心大満足の心を親鸞聖人は、こころは極楽浄土に往ってあそんでいるようだ、といわれているのです。
このように、阿弥陀仏の誓願によって、今、業苦楽に救われた人は、死ねば本当の極楽に往けるのです。
(因) (果)
┌────┐ ┌──┐
│業苦楽 │──→│報土│
│ごくらく│ │極楽│
└────┘ └──┘
↑
┌────┐ ┌──┐
│自業苦 │──→│地獄│
│じごく │ │ │
└────┘ └──┘
この世から救われるには?
「報土の因果は誓願なり」
報土だけつくられて、「そこへ往くのは、お前たちの力で往け」とおっしゃる阿弥陀仏ではありません。
私たちを報土へ往生させるために、阿弥陀仏がつくられたのが、この世で業苦楽にする働きのある、南無阿弥陀仏の名号です。
分かりやすくいいますと、報土を宇宙船とするなら、そこまで行くロケットが名号です。
2つとも本願によってつくられたのですから、報土も名号も、阿弥陀仏の本願が因です。
ところが、どんなにロケットが完成していても、そのロケットに乗らなければ、宇宙船には行けません。
今、名号を頂いて(信心獲得)、心が業苦楽にならなかったら、死んで極楽には往けないということです。
今、心の暗い人(信心獲得していない人)が、死んでからだけ、明るい報土へはいけません。
阿弥陀仏の極楽浄土は「無量光明土」ともいわれる明るい世界です。
この限りなく明るい世界に行くには、現在、弥陀の名号を賜って(信心獲得)、光明の広海に浮かんだ人だけが、死んで明るい無量光明土に往けるのです。
現在の延長が未来ですから、現在の自業苦が救われなければ、未来の地獄は助かりません。
死んで助かるか、否かは、「今」決するのだ。
生きている時に救われる「平生業成」こそ、弥陀の誓願の眼目なんだ、ということです。
阿弥陀仏の誓願によって、今、信心獲得した人なら、いつ死んでも極楽参り間違いなし、死ねば必ず報土極楽へ往けるのです。
私たちが報土に往生する因は、弥陀の本願力によって廻向される信心一つ。
これが衆生往生の因果なんだということを、曇鸞大師は明らかにしてくだされた。
さすがは曇鸞大師だ、この曇鸞大師の教えによって、親鸞は救われることができたんだ。
親鸞聖人は感佩して『正信偈』に
「天親菩薩の論を註解して、報土の因果は誓願なりと顕らかにされた」
と言われているのです。