一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
原文 | 書き下し文 |
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一生造悪値弘誓 | (一生悪を造れども 弘誓に値いぬれば) |
至安養界証妙果 | (安養界に至りて妙果を証せしむ) |
目次
「一生悪を造れども」とは?
これは、道綽禅師の教えを親鸞聖人が教えられたものです。
「一生悪をつくれども、弘誓に値いぬれば、
安養界に至りて妙果を証せしむ」
と読みます。
「一生悪をつくれども」とは、
「一生」とは、私たちが生まれてから死ぬまでの人生のことです。
「造悪」とは、悪を造る。
私たちが生まれてから死ぬまでの間、悪を造り続けている。
「一生悪を造れども」とは、この一生涯生まれてから死ぬまで人生、悪ばかり造っている。
悪しか造れないとおっしゃっています。
道綽禅師は、
若し悪を造ることを論ずれば、何ぞ暴風駛雨に異ならん
とおっしゃっています。
『暴風駛雨』とは、
『暴風』とは、激しく吹く風。台風のような嵐ということです。
『駛雨』とは、どしゃぶりの雨、スコールのような雨を言います。
暴風駛雨のように激しく悪を造り続けているのが、道綽禅師のおっしゃった、私たち人間のすがたです。
そんな私たちが、『弘誓に値う』のだとおっしゃっています。
そんな私たちが「弘誓」に値う
『弘誓』とは、阿弥陀仏の本願のことです。
大宇宙には、数え切れない程の仏様がまします仏様の本師本仏である、阿弥陀如来のなされていますお約束のことを、本願と言われます。
本願を『弘誓』ともいいます。
『弘誓』とは、誓いとありますように、お約束ということです。
このお約束を弘誓と言われますのは、阿弥陀仏のお約束の相手が大変弘いからです。
阿弥陀仏は、すべての人を救うとお約束されています。
このように、どんな人でも救うとお約束なされているのは、阿弥陀仏だけですので、阿弥陀仏のお約束を、弘誓と言われています。
どうして「値う」の漢字が使われているの?
値うというのは、阿弥陀仏のお約束通り、
無碍の一道に救い摂られるということです。
雨にあったといいますが、雨にあったということは、ずぶぬれになったということです。
火事にあったといいますが、火事にあったということは、家が焼けたということです。
阿弥陀仏の本願にあったといいますのは、
阿弥陀仏に救い摂られたということです。
その『あう』ということを、親鸞聖人は、
『値』という字を書いておられます。
『あう』と言っても色々ありますが、
『会』このあうは、多くの人が一堂に集まる。
『逢』これは、男女があう。
『遭』これは、事故に遭うとか、災難に遭うという時に使われます。
親鸞聖人は、ここで、
『会』でも
『逢』でも
『遭』でもなく、
『値』を使われたのはどういうことかといいますと、
阿弥陀仏の本願にあうということは、一生涯にただ一度しかない。
二度とあうことのない、そういうことにあうことです。
世々生々、多生の間、遠い過去から、遠い未来にわたって、あう人は一度、ない人は、一度もない。
そういうことにあうことです。
これを「値」の字を使います。
多くの人が集まるのは、またあうということがあります。
或いは、火事にあうというのは、又家が焼けるということがあるかもしれません。
又次あるということがあるということですが、阿弥陀仏の本願にあうということは、過去にもないということですから、親鸞聖人は、弘誓に値うといわれています。
安養界に至りて妙果を証せしむ
この世で阿弥陀仏の本願に救われた人は
『安養界』とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことを安養界と言います。
『妙果』とは、弥陀同体のさとりをいいますから、
阿弥陀仏と同じさとりを開かせて頂けるのだと、親鸞聖人はおっしゃっています。