一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

原文 書き下し文
一生造悪値弘誓 (一生悪を造れども
弘誓に値いぬれば)
至安養界証妙果 (安養界に至りて妙果を証せしむ)

目次

  1. 「一生悪を造れども」とは?
  2. そんな私たちが「弘誓」に値う
  3. どうして「値う」の漢字が使われているの?
  4. 安養界に至りて妙果を証せしむ

「一生悪を造れども」とは?

 これは、道綽禅師の教えを親鸞聖人が教えられたものです。
一生悪をつくれども、弘誓に値いぬれば、
 安養界に至りて妙果を証せしむ」

と読みます。

「一生悪をつくれども」とは、
「一生」とは、私たちが生まれてから死ぬまでの人生のことです。
「造悪」とは、悪を造る。

私たちが生まれてから死ぬまでの間、悪を造り続けている。

「一生悪を造れども」とは、この一生涯生まれてから死ぬまで人生、悪ばかり造っている。
悪しか造れないとおっしゃっています。

道綽禅師は、

 若し悪を造ることを論ずれば、何ぞ暴風駛雨に異ならん

とおっしゃっています。

『暴風駛雨』とは、
『暴風』とは、激しく吹く風。台風のような嵐ということです。
『駛雨』とは、どしゃぶりの雨、スコールのような雨を言います。

暴風駛雨のように激しく悪を造り続けているのが、道綽禅師のおっしゃった、私たち人間のすがたです。

そんな私たちが、『弘誓に値う』のだとおっしゃっています。

そんな私たちが「弘誓」に値う

『弘誓』とは、阿弥陀仏の本願のことです。

大宇宙には、数え切れない程の仏様がまします仏様の本師本仏である、阿弥陀如来のなされていますお約束のことを、本願と言われます。

本願を『弘誓』ともいいます。
『弘誓』とは、誓いとありますように、お約束ということです。

このお約束を弘誓と言われますのは、阿弥陀仏のお約束の相手が大変弘いからです。
阿弥陀仏は、すべての人を救うとお約束されています。

このように、どんな人でも救うとお約束なされているのは、阿弥陀仏だけですので、阿弥陀仏のお約束を、弘誓と言われています。

どうして「値う」の漢字が使われているの?

値うというのは、阿弥陀仏のお約束通り、
無碍の一道に救い摂られるということです。

雨にあったといいますが、雨にあったということは、ずぶぬれになったということです。

火事にあったといいますが、火事にあったということは、家が焼けたということです。

阿弥陀仏の本願にあったといいますのは、
阿弥陀仏に救い摂られたということです。

その『あう』ということを、親鸞聖人は、
『値』という字を書いておられます。

『あう』と言っても色々ありますが、
『会』このあうは、多くの人が一堂に集まる。
『逢』これは、男女があう。
『遭』これは、事故に遭うとか、災難に遭うという時に使われます。

親鸞聖人は、ここで、
『会』でも
『逢』でも
『遭』でもなく、
『値』を使われたのはどういうことかといいますと、
阿弥陀仏の本願にあうということは、一生涯にただ一度しかない。
二度とあうことのない、そういうことにあうことです。

世々生々、多生の間、遠い過去から、遠い未来にわたって、あう人は一度、ない人は、一度もない。
そういうことにあうことです。

これを「値」の字を使います。

多くの人が集まるのは、またあうということがあります。
或いは、火事にあうというのは、又家が焼けるということがあるかもしれません。
又次あるということがあるということですが、阿弥陀仏の本願にあうということは、過去にもないということですから、親鸞聖人は、弘誓に値うといわれています。

安養界に至りて妙果を証せしむ

この世で阿弥陀仏の本願に救われた人は
『安養界』とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことを安養界と言います。

『妙果』とは、弥陀同体のさとりをいいますから、
阿弥陀仏と同じさとりを開かせて頂けるのだと、親鸞聖人はおっしゃっています。

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