獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

原文 書き下し文
獲信見敬大慶喜 (信を獲て見て敬い大に慶喜すれば)
即横超截五悪趣 (即ち横に五悪趣を超截す)

目次

  1. 世間の宗教とまったく違う信心
  2. 獲得とは?
  3. 死ぬまで完成がないのは?
  4. 完成がないものを求めると……
  5. 獲得の獲と得の違い
  6. 何を見て敬うの?
  7. 五悪趣を超截すとは?
  8. それはいつ?

世間の宗教とまったく違う信心

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」とは
信を獲て見て敬い大きに慶喜すれば、
 即ち横に五悪趣を超截す

と読みます。

まず最初の「獲信」は、「ぎゃくしん」と読みます。
信心獲得のことです。

信心獲得」の「獲得」は、
世間では「かくとく」と読みますが
仏教では「ぎゃくとく」と読みます。
信心獲得」を略して「獲信」と言われます。

獲信」とか「信心獲得」といわれるように、親鸞聖人の教えられる信心には、獲得したということがあります。

世間にたくさんの宗教がありますが、
これを信心しなさい、幸せになれますよ
あなたは信心が足りない」など
信心を言わない宗教はありません。
みんな宗教と聞いたらイコール信心と思うほどです。

それらの宗教の信心には、獲得したということはありません。
自分の心で神や仏を信じている「信心」だからです。

獲得といわれるのは、親鸞聖人の教えだけですから、親鸞聖人の教えられる信心は、世間の宗教でいう信心とは、全く違うということです。

獲得とは?

では「獲得」とはどんなことかといいますと、
」もうる
」もうる
今まで自分のものでなかったものが、自分のものになったことをいいます。
求めていたものが獲られたことです。

例えばお嫁さんを探していた。
それが結婚できた。
これは、求めていたものが求まったということです。

マイホームが欲しかったのが、ついにマイホームを買った。
マイホームが自分のものになった。
求めていたものが獲られたということです。

獲得」とは、
求めていたものが獲られたことですから、
別の言葉では、
卒業」とか、
完成」とか、
達成」ともいえましょう。

信心を獲得した」ということがある。
それは、信心に、
卒業した、
完成した、
達成したということがある、ということです。

世界にどれだけたくさんの宗教があっても、
卒業のある信心
完成のある信心
達成のある信心
をいう宗教はありません。

完成のある信心を教えられたのは、親鸞聖人だけです。

親鸞聖人の教えられた信心は、完成がありますから、
親鸞聖人は、「信心しなさい」とは決して言われません。
信心獲得しなさい」と言われます。

死ぬまで完成がないのは?

ところが世間では、信心に「獲得した」ということがあるものか。
卒業もなければ完成もない。
死ぬまで求め続けるのが信心だ、と思われています。

死ぬまで求め続けて信心し続けていかねばならない、「死ぬまで求道だ」と思っています。

求道とは道を求めると書きますが、例えばお茶の道なら茶道です。
他にも、書道や華道、剣道、柔道など、色々な道があります。

他にも、政治や経済、科学、医学、法律、芸術、スポーツなど、どんな道も、死ぬまで卒業はありませんから、死ぬまで求道です。

人それぞれ色々のものを求めて生きています。
色々のものを「生きがい」として生きている、ということです。

これらは確かに、死ぬまで求め続けねばならないものです。

宮本武蔵は日本一の剣豪と言われましたが、剣の道は奥が深い、やればやるだけ己の未熟さが知らされる、と述懐しています。

医学は人間の命を延ばそうと必死に努力をしますが、永遠に延ばし続けることはできません。
死ぬまで、延ばし続けるということです。

これらのものに、これで求まった、卒業した、完成したということは、絶対にないのです。

全人類72億の人があっても、これら「趣味」や「生きがい」しか知らない世界に生きていますから、それらの人たちの考える信心も、卒業もなければ完成もない、死ぬまで求め続け、信仰し続けねばならない信心にならざるをえません。

それで世界にたくさんの宗教があっても、それらの信心に「獲得はない」のです。

完成のないものを求めると……

絶対に求まらないと分かったら、求める意味がありませんから、求める人は誰もありません。

受験勉強をするのは、合格する可能性があるからです。
絶対に合格できない女子大を目指して、男子生徒が受験勉強をすることはありません。

死ぬまで「求まった喜び」のないものを求め続けるのは、悲劇あるのみでしょう。
それらは生きがいであって、「人生の目的」ではありません。

ところが親鸞聖人の教えられる信心は、目的地のない、はてしのない道ではありません。ゴールのある道です。
スタートを切ったならばゴールめがけて走るのです。

卒業」とか「完成」とは、
人生の目的が達成されたこと」です。
足すものもなければ、引きさるものもない、完全無欠という状態が獲得です。

必ず求まったということがあることを、親鸞聖人は「獲得」といわれています。

獲得の獲と得の違い

ではなぜ「獲る」「得る」と、2つの文字で言われているのでしょうか。

それは、親鸞聖人の教えられている信心は、2つのものを「うる」からなのです。

」は現在世(この世)でうるものを、「えた」ことを言います。
現在生きているときに、自分のものになったことです。

それだけではありません。

」は未来世(死後)でうるものを、「える」ことを言います。
親鸞聖人が明らかにされた信心は、死んだ後も、大変な幸せをうることができます。

」は現在世でうるものを、
    えた、ことを言う。
」は死後でうるものを、
    える、ことを言う。

」がこの世、現在で、
」が未来です。

この世では正定聚の身にさせて頂いて、無碍の一道、絶対の幸福に生きることができ、
死ねば浄土へ往って(往生)、阿弥陀仏と同じ弥陀同体の仏に生まれる(成仏)ことができます。

こういう2つのものを、自分のものにできる信心を教えられたのが親鸞聖人ですから、「信心獲得」と言われています。

その信心を獲得するのは、平生の一念です。

何を見て敬うの?

次に「見敬(けんきょう)」と言われています。
見敬」とは、一念のときのことです。
一念」とは、信心を獲得する「時剋の極促」、何億分の一秒よりも速い時間の極まりをいいます。

見敬」は、もちろん阿弥陀仏を見て敬うのですが、それは肉眼ではありません。
一念で信心獲得すると、心の眼に阿弥陀仏をハッキリ拝めますから、敬いの心が起きます。

その一念のとき、2つの大きなものを頂いて、大変な喜びが起きますので、
信を獲て見て敬い大慶喜する
と言われています。

大慶喜」とは
」もよろこび、
」もよろこび、
さらに「」がつけられて、大きな喜びの心です。

現在も未来も大きな幸福をえられますから、天に踊り、地に踊る、大きな喜びのことを「大慶喜」と言われています。

それは、果てしない過去から、未来永遠迷わせる無明の闇が破れたからです。

いつ死んでも極楽往き間違いなしですから、次に、
すなわち横に五悪趣を超截する
と教えられています。

五悪趣を超截するとは?

五悪趣」の「」は世界のことですから、
五つの悪い世界を「五悪趣」と言われます。
六つの迷いの世界、六道のことですが、修羅を人間に含めて、地獄餓鬼畜生、人間、天上の5つの世界を五悪趣といいます。

これらはいずれも迷い、苦しみの世界です。

私たちが、果てしなく遠い過去から、生まれては死に、生まれては死に、車の輪が回るように、際限なく生死を繰り返してきた世界です。

そういう迷いの世界をめぐらせている迷いの元が無明の闇です。
それが阿弥陀仏のお力によって、一念で断ち切られますから、
すなわち横に五悪趣を超截す
と言われています。

それはいつ?

すなわち」とはその時、
横に」とは阿弥陀仏のお力によって
ということです。

超截」の「」は一念、
」は、きる。
獲信見敬大慶喜のその時、阿弥陀仏のお力によって、五悪趣を迷わせる無明の闇を一念で断ち切られるということです。

ですからそのとき、迷いと縁切りしてしまいます。
二度と五悪趣を迷うことのない身にして頂ける。
金輪際、この5つの迷いの世界で苦しむことはなくなってしまうということです。

信心獲得の一念に、無明の闇が断ち切られてしまいますから
人身受け難し、今すでに受く」(釈迦)
よくぞ人間に生まれたものぞ
果てしない生死輪転を繰り返してきたが、今、人間に生まれたのは、このためであったのか
と、生命の大歓喜が起きるのです。

それが私たちがこの世に生まれてきた目的であり、人生の目的を達成したことを「信心獲得」といいます。

親鸞聖人が「信心獲得しなさい
といわれるのは、
はやくこの人生の目的を果たしなさい、と教え勧められているのです。

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