弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
原文 | 書き下し文 |
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弘経大士宗師等 | (弘経の大士・宗師等) |
拯済無辺極濁悪 | (無辺の極濁悪を拯済したまう) |
目次
弥陀の本願を伝えてくだされた七高僧方
『正信偈』冒頭の二行に、
帰命無量寿如来
南無不可思議光
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
「阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と聖人は、絶対の幸福に救い摂られた自らの体験を、叫びあげられています。
二回同じことを繰り返されているのは、何度書いても書き足りない喜び、どれだけ言っても言い足りない満足を表しておられるのです。
続いて、
法蔵菩薩因位時
~乃至~
必至滅度願成就
と言われているのは、
救いたもうた阿弥陀如来の偉大な本願力を、絶賛なされているところです。
そして、
「その弥陀の本願以外に、釈迦の説かれたことはなかったのだ」
と断言されているのが、次の二行、
如来所以興出世
唯説弥陀本願海
唯弥陀の本願海を説かんとなり
です。
それから、
「釈迦が、どんなすごい弥陀の本願を説かれていても、伝える人がなかったら、親鸞、救われることはなかったに違いない」
と、インド、中国、日本の高僧方の教えを順次紹介され、功績をたたえておられるのです。
その方々を七高僧といいます。
七高僧
(1)龍樹菩薩
(2)天親菩薩 インド
(3)曇鸞大師
(4)道綽禅師 中国
(5)善導大師
(6)源信僧都 日本
(7)法然上人
このように、
インドでは龍樹菩薩・天親菩薩のお二人、
中国では曇鸞大師・道綽禅師・善導大師らのお三方、
日本の源信僧都・法然(源空)上人、
あわせて七人の高僧方。
「これらの方々が、大変なご苦労をなされて、弥陀の本願を親鸞まで正しく伝えてくだされたなればこそ、絶対の幸福に救い摂られることができたのだ。喜ばずにおれない」
と聖人は厚恩に感泣され、その七高僧方のことを最後にまとめて
「弘経の大士・宗師等」
と言われているのです。
弥陀の本願とは?
「弘経の大士・宗師等」
の「弘経」とは、「仏教を広められた」ということ。
仏教と言いましても、釈迦の説かれたことは唯一つ、「阿弥陀如来の本願」以外にありません。
「阿弥陀如来の本願」とは、
我を信じよ
どんな極悪人をも
必ず助ける
絶対の幸福に
私たちは何を「幸福」と信じ、朝夕追い求めているでしょうか。
「世の中、ゼニや」と、金命の人もある。
「国会議員になりたい」「文化勲章が欲しい」と、社会的地位や名声を得るために必死の努力をしている人、「健康第一」「家族がすべて」という人もあります。
人生いろいろですが、みんな安心したい、満足したい。幸福を求めて生きているのです。
しかし、金が儲かった喜びや、選挙当選の感激、新婚の幸せ気分も、いつまで続くでしょう。
やがて色あせ、夢幻のごとくではないでしょうか。
送迎車内に放置された二歳の園児が、熱射病で死亡する事件が起きました。
愛児を失った悲しみは想像に余りあります。
団らんの家族も、事故や災害で、「まさかこんなことになるとは……」と、一瞬で転落する現実は、毎日報じられている通りです。
かりそめの幸福しか知らない私たちを深く哀れんで、
決して見捨てはしない、我に任せよ、
絶対に壊れない幸せにしてみせる、
苦悩渦巻く人生のままが
光明輝く絶対の幸福に救い摂ってみせるぞ、
と誓われているお約束が、阿弥陀如来の本願なのです。
こんなすばらしい誓願は、大宇宙に数えきれないほど仏方はましませども、本師本仏の阿弥陀如来しか建立することはできませんから、
親鸞聖人は、『正信偈』に
「無上殊勝の願」とか「希有の大弘誓」と絶賛されているのです。
七高僧方のご苦労は、何のため
その「弥陀の本願」を、正確に伝えてくだされた七高僧方のことを
「弘経の大士・宗師等」と言われ、それは、
「無辺の極濁悪を、拯済する」
ためであったのだと、次におっしゃっています。
「拯済」とは、「救う」こと。
「弥陀の救いに導く」ことです。
どんな人を導くためかといいますと、
「無辺の極濁悪」を、と言われています。
「無辺」とは、数限りもない。
「極濁悪」とは、「極めて汚れた、悪に染まった極悪人」ということですが、これはどんな人のことでしょう。
幼児を誘拐して殺害した男や、子供に保険金をかけて殺す親のことでしょうか。
いいえ、そんな人ばかりではありません。
親鸞聖人が、
「古今の全人類は、一生造悪の極悪人である」
と教えておられるように、
「無辺の極濁悪」とは、「すべての人」のことであり、この中に入らない人は一人もいないのです。
その極悪の私たちを、弥陀の救いにあわせるために、
龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然上人が、「弥陀の本願」を正しく伝えてくだされた。
七高僧方の命懸けのご苦労は、古今東西のすべての人を助けるためであったのだよ
と、その大活躍を讃えておられるお言葉が、
「弘経大士宗師等」
(弘経の大士・宗師等)
「拯済無辺極濁悪」
(無辺の極濁悪を拯済したまう)
「極悪人の親玉が、親鸞であった」
と照らし抜かれた聖人が、
「弥陀五劫思惟の願は、
親鸞一人がためなりけり」
と救い摂られて、
「七高僧方が、身命を賭して弥陀の本願を布教されたのは、極悪の親鸞一人を助けるためであった。
そのご苦労なかりせば親鸞、この身に救い摂られることはなかったであろう、なんと有り難いことか」
という、限りなき感謝の表明でもあるのです。
”弥陀の本願まことなるかな、
この本願真実ひとつを、釈尊は生涯説かれたのだ、それは親鸞が独断で言っているのではない、七高僧方がみな、教えておられることなのだ”
と聖人は『正信偈』に明らかにされました。
そして最後に、
「道俗時衆共同心」
「唯可信斯高僧説」
「人々よ、本当の幸福に救われるには、
ただ、この高僧方の教えを信じてくれよ。
弥陀の本願に聞きひらけよ。それ以外には、絶対にないのだから」
と勧めておられるのです。