宣説大乗無上法
原文 | 書き下し文 |
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宣説大乗無上法 | (大乗無上の法を宣説し) |
目次
- どんないいものも宣伝しなければ誰も分かりません
- 大乗仏教と小乗仏教
- 地獄へ行く人、極楽へ往く人
- 世の中でも成功する人は
- 無上の法に生かされた者は
- 黙っておれる世界でない
- 不可称・不可説・不可思議の世界
- 無慈悲な人間が伝えずにおれなくなるのは
- 自利利他の権化
- 十方にひとしくひろむべし
どんないいものも宣伝しなければ誰も分かりません
難病の特効薬があっても、教えてくれる人がなければ、苦しみ死んでいかなければなりません。
薬があるのに、宣伝されないために助からない。
そんなことがあってはならないでしょう。
「宣説」の宣は、宣伝、コマーシャルです。
龍樹菩薩が宣伝し、説かれたことは、
「大乗無上の法」という、
すべての人が、この世から未来永遠に救われる教えでした。
大乗仏教と小乗仏教
「大乗」とは、大乗仏教のことです。
それに対して小乗仏教といわれるものがあります。
○小乗仏教
聞き誤って伝えられた仏教。
──我利我利の教え
○大乗仏教
正しく伝えられた仏教
──自利利他の教え
これは、仏教に二つあるということではありません。
小乗仏教は、お釈迦さまの教えを聞き誤って伝えられた仏教であり、
大乗仏教は、正しく伝えられた仏教です。
真の仏教は、すべての人を救う、大きな乗り物のような教えです。
それを聞き誤り、小さな乗り物にしてしまったので、小乗仏教と言われるようになったのです。
中でも顕著な誤りは、大乗仏教が自利利他をその精神とするのに対し、小乗仏教は我利我利の教えに陥ってしまった点です。
「利」とは、利益、幸福のことですから、
我利我利とは、
”自分さえ助かれば、他人はどうなってもよい”
という自己中心的な考えです。
そこまで極端に思わずとも、
”まず自分が助からなければ。他人のことまで考えておれない”
という消極的・退嬰的な姿勢のことです。
真の仏教精神、大乗仏教は、
”自分が幸せになる、同時に他人も幸せにする”
”他人を幸せにするままが自分の幸せになる”
二つであって一つ。
これが自利利他です。
地獄へ行く人、極楽へ往く人
物好きな男が、ひとつ地獄を見に行こうと、ノコノコ出かけました。
たまたま地獄は昼食時で、食卓の両側に亡者どもが、ずらりと並んでいます。
地獄のことだから、どうせロクなものを食べてはいないだろうと、テーブルの上を見ると、あにはからんや山海の珍味の山。
にもかかわらず、亡者どもは、骨と皮にヤセ衰えています。
「おかしいなぁ」とよくよく見ると、一様に1メートル以上もある長い箸を持っています。
これでは、いくらおいしいご馳走が目前にあっても、自分の口へは入れられません。
ついで男は、極楽へ行ってみることにしました。
ちょうど、夕食時で、テーブルの両側には、仲良く極楽の住人たちが座っていました。
もちろんご馳走は、山海の珍味です。
「さすがにみんな、丸々と肥えているなぁ」と思いながら、ふと箸に目をやると、何とその箸も地獄と同じように、1メートル以上もあるではありませんか。
一体、地獄と極楽とは、どこが違うのかと、小首をかしげて食べ始めるところを見ていました。
すると、はさんだご馳走を自分が食べないで、お互いに向こう側の人に食べさせているではありませんか。
「なるほど、極楽へ往っている人の心がけが違うわい」と、横手を打って感心しました。
世の中でも成功する人は
これはもちろん、たとえ話ですが、
仏教では、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄といわれます。
そして、光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし、己も生きる、
自利利他の大道を進みなさいと教えられます。
商売でも、自分の利益ばかりを求める人は一時、儲けることはできても、「ドカ儲けすりゃ、ドカ損する」で、やがて財を失っています。
ある成功者に、秘訣を尋ねると、こう語ったそうです。
「人はまるい風呂に入った時、お湯を胸元にかき集める。
すると湯はわきから逃げていく。
私は湯を向こうへ押す。すると回って戻ってくる。
つまり、私は儲けをどんどん人に与えた。
すると人も自分をさらに儲けさせてくれた。
多くの人は、儲けを自分だけにかき集めようとするから儲からない」
また、
「最もよく人を幸せにする人が、最もよく幸せになる」
という言葉を座右の銘としていた実業家もありました。
世の成功者の考えは、大乗仏教の精神に通じているようです。
無上の法に生かされた者は
次に、無上の法とはどんなことでしょうか。
『法華経』も『華厳経』も『涅槃経』も大乗の教えですが、
すべての人が真に救われる、無上の法はただ一つ。
『大無量寿経』に説かれている阿弥陀如来の本願です。
大乗の中の大乗、無上仏の本願に救い摂られ、無碍の光明海に雄飛させられた人は、
他力の信をえんひとは
仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を
十方にひとしくひろむべし
(正像末和讃)
と親鸞聖人仰せの通り、
真実の仏教を十方に広めるために、力尽くさずにおれなくなります。
救われた人はもちろんですが、
いまだ信心獲得していなくとも、
尊い仏法を知らされたならば、人に伝えずにおれません。
世間ごとでもそうでしょう。
どこのそば屋にも満足できなかった、大のそば好きが、ある日ふらっと入った店で極上のそばに巡り会いました。
それ以来、毎日のように通いつめているその人が、そば屋のことを誰にも言いません。そんなことがあるでしょうか。
「おいしいそば屋が見つかった。あんなうまいそば、生まれて初めてだ。あなたも一度行ってたべてごらん」
顔中口にして、言わずにおれないのではないでしょうか。
黙っておれる世界でない
どの医者にも見放された難病人が、絶望のふちで世界一の名医に巡り会い、全快したらどうでしょう。
私は命拾いした。同じ病気で苦しんでいる人を知っているが、名医のことは内緒にしておこう。
そんな人があれば、無慈悲な鬼というほかないでしょう。
まして仏法は、この世五十年か百年の肉体を救うどころではありません。
未来永劫の後生の一大事を救う教えです。
その無上の妙法を知りながら、宣説しないなど、考えられないこと。
「私だけ聞いておればいい。人に勧めるのは、どうも……」
と尻込みするのは、まだ仏法の妙味を知らされていないからです。
そばならば、味が分かっていないのです。
自分がおいしいと思えなければ、他人に言う気になれないでしょう。
本当の味を知った人ならば、じっとしてはおれません。
「私は救われた。だけど人には言いたくない」
などと黙っておれるような世界とは、ケタが違うのです。
不可称・不可説・不可思議の世界
「でも、言って分かってもらえるようなものでないし……」
それはそのとおり。
親鸞聖人は、
不可思議・不可称・不可説の信楽なり(教行信証)
とおっしゃっています。
こんな広大無辺な境地、不思議な世界、
説いても説いても大海の一滴も表せない、とても分かってもらえない。
しかし大乗精神は次が違います。
だからこそ、身を粉にしても骨を砕いても、言わずにおれない、説かずにおれない。
これが、ひとしく救われた者の真情なのです。
無慈悲な人間が伝えずにおれなくなるのは
「しかし親鸞さまでさえ、無慈悲な人間とおっしゃっているではないか。
私たちに人を助けるなどという大それたことができようか」
そんな声が聞こえてきそうです。
確かに聖人は、
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(悲歎述懐和讃)
とおっしゃっています。
「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ」
慈悲のかけらもない親鸞。他人に仏法を伝えて幸せになってもらいたいと
願う心もない、と告白されています。
しかし、この聖人の熾烈な懺悔のお言葉を聞いて、
”だから自分も無慈悲でいいのだ”
などと思うのは、大変な仏法の聞き誤りです。
それなら聖人の、あの大活躍は何だったのでしょうか。
邪険な日野左衛門を、石を枕に雪をしとねに済度されたり、剣かざして殺しに来た弁円に、命がけで法を説かれるなど、なぜできたのでしょうか。
「如来の願船いまさずは、苦海をいかでかわたるべき」
それはまったく、如来の願船、阿弥陀如来のお力だとおっしゃっています。
阿弥陀如来のお力で、小慈小悲もなき極悪人と知らされ、そんな自分が極善無上の幸福に救われた時、このご恩返しは身を粉にしても骨砕きても済まぬと、猛進せずにおれなくなるのです。
無上仏の大願業力によって動かされるのです。
だからこそ龍樹菩薩は、たとえ、その生涯を異教徒の迫害の中に終わるとも、敢然と大乗無上の法を宣説されたのです。
龍樹菩薩の大活躍がなければ、親鸞は救われなかった。
この師教の洪恩、どうして忘れることができようぞ。
”大乗無上の法を宣説された”
龍樹菩薩を、親鸞聖人はほめたたえておられるのです。
自利利他の権化
龍樹菩薩が破邪顕正の一生を送られたように、
親鸞聖人もまた、自利利他の権化でありました。
聖人34歳といえば法然上人のお弟子であった時です。
大乗無上の法、弥陀の本願を明らかにするため、法友と三度にわたって大論争をなさっています。
三大諍論のいずれも、親鸞聖人が法友の誤りを黙認されていたら、起きなかったのです。
恨まれようと、そしられようと、阿弥陀如来の正しい御心を明らかにしなければ、全人類が救われる唯一の道が閉ざされてしまうではありませんか。どうして黙っておれましょう。
十方にひとしくひろむべし
この精神を忘れ、我利我利の声聞根性に陥る時、
仏教は急坂を転がり落ちるように衰退するのです。
いくら素晴らしい教えがあっても、宣伝しなければ誰も分かりません。
”
親鸞聖人の熱い御心が伝わってきます。