還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
原文 | 書き下し文 |
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還来生死輪転家 | (「生死輪転の家に還来することは) |
決以疑情為所止 | (決するに疑情を以て所止と為す) |
速入寂静無為楽 | (速やかに寂静無為の 楽に入ることは) |
必以信心為能入 | (必ず信心を以て能入と為す」 といえり) |
目次
法然上人の教えの最も大事な所とは?
これは
「『生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す、
速やかに寂静無為の楽に入ることは、
必ず信心を以て能入と為す』といえり」
と読みます。
親鸞聖人が、非常に尊敬しておられる、師・法然上人の、主著『選択本願念仏集』の最も大事な所を教えられたお言葉です。
すべての人は苦しみから離れきれない
まず「生死」とは、生きているものが死ぬ、ということです。
色々の苦しみがあっても、死ぬほど苦しいことはないと言われますように、生きているものが死ぬ、ということは、苦しみの中で一番ですから、「生死」とは、仏教で苦しみということです。
「輪転」とは車の輪が回る、ということで、果てしのないことです。
きりがない、きわもない、限りがない、これで終わったということがない、無限ということです。
ですから「生死輪転」とは、
苦しみが際限なく、次から次とやってくる。
これで苦しまなくなったということがない、ということです。
「家」とは、離れられないということです。
雨露をしのぐ所が家ですが、私たちは家を離れて生きてはいけません。
離れられないところを家と表現されています。
「生死輪転の家」とは、
苦しみが、次から次とやってきて、私たちはその苦しみから離れることできない、ということです。
どれだけ政治が変わっても、
どれだけ経済が豊かになっても、
どれだけ科学が発展しても、医学が進歩しても、心からの安心も満足もないのが、人間の現実です。
苦しみ悩みが次から次とやってきて、すべての人は苦しみから離れることはできないのだ、ということです。
次の「還来」とは、行ったり来たり、ということです。
ですから、「生死輪転の家に還来する」とは、
どんなに政治や経済、科学や医学が変わっても、苦しみの世界を行ったり来たり、苦しみから離れることはできない有様をいわれています。
苦しみの世界とは?
これを厳格にいいますと、「生死輪転の家」とは、苦しみの世界ということで、仏教では、大きく分けると6つ、教えられています。
一番苦しみの激しい世界を地獄。
次に苦しい世界を餓鬼道、その次を畜生界といいます。
その次に、修羅界、人間界、天上界とあります。
地獄 修羅
餓鬼 人間
畜生 天上
これを「六道」または「六界」といいます。
いずれも迷いの世界です。
これら6つの迷いの世界から離れられないことを、家と言われています。
私たちは今は人間に生まれていますが、死ねばどこか次の世界に生まれ、やがて死にます。
するとまた次の世界に生まれ、やがて死にます。
生まれては死に、生まれては死に、この6つの世界をぐるぐるぐるぐる、生まれ変わり、死に変わり、生死、生死を繰り返しています。
これを「六道輪廻」といいます。
なぜ私たちは、迷いの世界をぐるぐる回って、苦しみから離れきれないかといいますと、死んだ後にこういう結果が現れるのは、私たちの今の心に原因があります。
何のために生まれてきたのか分からず、苦しみが際限なくやってきて、「どう生きるか」だけに必死になっています。
何をやっても、何を手に入れても、虚しさから離れられず、最後まで苦しみながら死んで行かなければなりません。
これでは、苦しむために生まれ、生きているようなものでしょう。
こんな心で、死ねば苦しみの世界を行ったり来たり、六道輪廻を繰り返しているのです。
ではこのように、生死輪転の家に還来しないようにするには、どうすればいいのでしょうか。
苦しみの世界に還来する原因は?
この苦しみの世界に還来する原因を
法然上人は、
「決するに疑情を以て所止と為す」
と教えられています。
「決するに」とは、
「決」は、「決定」「決まる」の決ですから、
「決するには」とは、二つも三つもない、これ一つ、ということ。
生死輪転の家に還来する原因は、ただ一つなんだ、ということです。
それは何かといいますと、
「疑情をもって所止と為す」。
「所止と為す」とはとどまるところとなす、ということですから、私たちが生死輪転する原因は、疑情一つなんだということです。
「疑情」とは何かといいますと、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。
大宇宙最高の仏さまであり、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀如来は、
「すべての人を必ず絶対の幸福に救い摂り、真実の浄土に生まれさせる」
と約束なさっています。これを阿弥陀仏の本願といいます。
すべての人が苦しみから離れきれない原因は、疑情一つ。
この弥陀の本願を疑っているからなのだ。
これがすべての人の苦悩の根元なんだと法然上人が教えられ、親鸞聖人も、その通りだ、間違いないと正信偈に引用されているのです。
だから、人間に生まれてきた目的は、この苦悩の根元である疑情を破っていただき、苦しみをなくして永遠の幸せになることなんだ、
だからはやく疑情をはらしていただきなさい、と教えられているのが次のお言葉です。
未来永遠の幸福になるには?
「『速やかに寂静無為の楽に入ることは、
必ず信心を以て能入と為す』といえり」とは、
「信心」とは、疑情(弥陀の本願に対する疑い)のなくなったことを「信心」といわれています。
「速やかに」とは死ぬと同時に、
「寂静無為の楽」とは阿弥陀仏の極楽浄土のことですから、
「速やかに寂静無為の楽に入ることは」とは、
死ぬと同時に弥陀の浄土へ往くには、ということです。
「必ず信心を以て能入と為す」の
「能入」とは、入ることができる、ということですから、阿弥陀仏の極楽浄土に入るときには、必ず要るものがある、ということです。
それが「必ず信心を以て」と言われている
「信心」です。
信心がなければ、極楽浄土に往くことはできません。
「必ず」ですから、あってもよい、なくてもよい、ということではありません。
必ず要る、必要なのです。
信心がなければ、絶対に極楽には往けませんよ、ということです。
「信心」といいましても、阿弥陀仏を疑わないように信じるとか、すでに救われていることに気づく、ということではありません。
疑情が破れたことを信心といいます。
ですから、死んで阿弥陀仏の極楽浄土に往くには、弥陀の本願に対する疑いが、浄尽しなければ、かないませんよ、ということです。
最後の「いえり」とは、
法然上人がそう言われている、ということです。
法然上人は、
全人類の苦悩の根元は疑情(本願に対する疑い)であると明らかにされ、疑情さえなくなれば、二度と迷わぬ身となって、この世から未来永遠の幸せになれるのだから、はやく疑情を晴らしていただきなさい、
と教えられているのです。
それを親鸞聖人は、
まったく先生のおっしゃる通りだった。
我が師・法然上人のすばらしさは、全人類の苦しんでいる本当の原因を明らかにされたところにあるんだと、その偉大さをほめたたえておられるお言葉です。
これは、親鸞聖人のみならず、私たち全人類がどれだけほめたたえても、過ぎるということがない、法然上人の偉大なお手柄なのです。