法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
原文 | 書き下し文 |
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法蔵菩薩因位時 | (法蔵菩薩因位の時) |
在世自在王仏所 | (世自在王仏の所に在して) |
覩見諸仏浄土因 | (諸仏浄土の因、) |
国土人天之善悪 | (国土・人天の善悪を覩見して) |
建立無上殊勝願 | (無上殊勝の願を建立し) |
超発希有大弘誓 | (希有の大弘誓を超発せり) |
目次
親鸞聖人はどうして救われたのか
正信偈の冒頭に、親鸞聖人は、阿弥陀仏にこの世で絶対の幸福の身に救われた言い尽くせない喜びを、
「帰命無量寿如来(親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ)
南無不可思議光(親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ)」
と言われています。
では親鸞聖人は、どうして絶対の幸福に救い摂られたのでしょうか。
親鸞聖人が、
「どうしてこの身になれたのか、このようなことがあったからなんだ」
と教えられているのが、今回お話しするところです。
法蔵菩薩とは?
まず
「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」は、
「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所にましまして」
と読みます。
「法蔵菩薩」とは、阿弥陀仏のお名前です。
「因の位」とは「果の位」である仏のさとりを目指して、たねまきに精進している菩薩の位ですから、「因位の時」とは、阿弥陀仏がまだ仏のさとりをひらかれる前、法蔵菩薩といわれていた時、ということです。
その時、自ら世自在王仏という仏のお弟子になられたということが、
「世自在王仏の所にましまして」
ということです。
菩薩になったら、師を持たねばなりません。
そこで、法蔵菩薩は、世自在王仏という仏の弟子になられました。
これは、どういうことだろう。
阿弥陀仏は、本師本仏ではなかったのかと疑問に思われる方もありましょう。
もっともな疑問です。
阿弥陀仏は本師本仏ですから、すべての仏様の先生であり、師匠なのですが、私たちを助けるために、わざわざ仏の座を降りられ、菩薩になられたということです。
これを「従果降因」といいます。
ちょうど親が子供を喜ばせるために、一緒に遊んでやろうとする時でも、親が将棋が好きだからといって、はいはいしている子供に、
「おいお前、将棋の相手になれ」といっても、とても相手はできません。
そんな時は、遊んでやるには子供の世界へ降りていくしかありません。
そうでなければ、子供と縁が持てないのです。
積み木遊びがやっとやっとの子供には、その子供のレベルまで親の方から降りて、子供と交流を持ちます。
親からいうと、積み木遊びは面白くも何ともないのですが、子供のために、一緒に積み木遊びをしてやるということです。
私たちを何とか助けようと、阿弥陀仏が法蔵菩薩と従果降因された目的は、そこにあります。
それで法蔵菩薩に成り下がられて、ご苦労されたのです。
ではどんなご苦労をなされたのでしょうか。
法蔵菩薩の願い
ある時、法蔵菩薩は、
「お師匠様、ぜひお願いがあります」
と世自在王仏の御前に両手をつかれました。
世自在王仏が、
「法蔵よ。どんな願いか」
と尋ねると、
「お師匠様、ご存じのことと思いますが、
すべての人は、このままでは後生は大変なことになります。
何とか助けさせて頂きたいのです。よろしいでしょうか」
とお願いになりました。
「すべての人は、一生悪しか造れない、煩悩具足の者、
このままでは未来永遠、苦しみ続けなければなりません。
どうか助けさせてください」
と懇願なされたのです。
本来は、助けてもらう私たちが
「どうか助けてください」
とお願いしなければならないのですが、
このように、助ける方が
「助けさせてください」
と言われるのは、世間にないことです。
ところが、大宇宙の諸仏にも見捨てられた一生造悪の者には、助けてくださいという心もありませんので、
法蔵菩薩が、
「私に助けさせてください。
どうかお許し頂けないでしょうか」
と師匠に手をつかれたのです。
その時、世自在王仏は、
「法蔵よ、まことに尊い願いである。
だが、十方衆生がどんな者か知ってのことか」
「それはよく分かっておりますが、苦しんでいる人たちを見ていると、とてもじっとしてはおれないのです」
「だがなあ、思いとどまった方がよかろう。
そなたも知っての通り、十方諸仏も一度は助けようとしたけれど、罪が重すぎてとても助けることができなかった。
かわいそうだが、見捨てるしかなかったのだよ」
「お師匠様、それはじゅうじゅう承知しております。
だからこそ、私が助けなければ、十方衆生は永遠に助かりません。
お願いでございます。どうか助けさせてください」
それでも世自在王仏は、自分の弟子に無駄な苦労をさせたくはありません。
「罪悪深重の者を助けるのは、いかに困難なことか。
そなたにそんな無益な苦労はさせたくない。
気持ちは尊いが、やめておきなさい」
弟子を思う師の心です。
ところが法蔵菩薩は、一歩も引かれず、
「しかし、どうしても見てはおれないのです。
何とか助けさせてください」
と重ねてお願いになります。
何とかしようとして何とかなるのなら、苦労のしがいもありますが、十方衆生は救われる縁なき者たち。
世自在王仏は、何度も翻意を促すのですが、何度言っても、法蔵菩薩が、何度も熱心にたのむので、最後の切り札を出しました。
「そなたの意志は、固いのお。いくら言っても心は変わらないのか。
では、一つの譬えで話をしよう。
十方衆生を助けることは、ただ一人、貝殻で海の水をくみとって、
体をぬらさずに、海底の宝をとってくるより難しいのだぞ」
海にはどんどん川から水が流れ込んで来ますから、貝殻どころか、世界中の消防ポンプを使っても、とても無理でしょう。
世自在王仏は、不可能なことを言ってあきらめさせようとしたのですが、それでも法蔵菩薩の心は微動だにもされません。
この、何度あきらめよと言われてもあきらめきれず、何とか助けさせてくださいと法蔵菩薩が願われたのは、ものすごい力でした。
それをとめることは、誰もできない、何ものにもできないということです。
これを「法蔵の願心」と言います。
これこそ阿弥陀仏の願力です。
この願心がなければ、私たちは、仏法をきくようなものではありません。
仏法は真実ですから、真実のかけらもない私たちには、聞く心はないのです。
聞く心のない私たちが、どこから聞く心が出てくるのかというと
阿弥陀仏の御念力に、引っ張られ、押し出されているのです。
こうして、
「助けさせてください」
「やめておけ」
「助けさせてください」
「やめておけ」
と何回も何回もやりとりされて、
ついに世自在王仏は、
「これだけ言ってもあきらめられないなら」
と根負けされました。
ようやく師匠の許しが受けられたのです。
法蔵菩薩は、
「万歳、万歳、万々歳、どうもありがとうございます」
と心から喜ばれ、
「それなら、どうやって助けるか」
すべての人々を助ける計画を立てられました。
すべての人を助けるご計画
それが次の
「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」
です。
これは
「諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して」
と読みます。
「覩見して」とは
「ご覧になられて」「調査されて」ということです。
大宇宙には数え切れないほどの諸仏がましますということは、
それらの方々がまします浄土が、大宇宙には数え切れないほどあるということです。
そして仏様には、必ず願いがあります。
それは、苦しみ悩む人を、どのように助けようかという願いです。
「諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して」
ということは、法蔵菩薩はまず、
大宇宙の諸仏方が、どのような浄土を作られたのか
その浄土はどのようにしてできたのか
その浄土に住んでいる人々はどんな人なのか
その善悪を徹底的に調査されたということです。
そうでなければ、諸仏が助けることのできなかった十方衆生を、助けられるはずがありません。
私たちも、家を建てる時、
学校に近いか、
スーパーに近いか、
近くの住人はどんな人たちか、
全体の間取りはどうか、
耐震構造はどうか、
使い勝手や居心地はいいか、
色々なことを調べます。
そして、設計し、施工して、ようやく一軒の家が建ちます。
わずか一軒建てるだけでも大変な苦労があります。
ましてや本師本仏の阿弥陀仏が
「最高無上の極楽浄土を建立してみせる。
そしてすべての人々を、わが浄土に生まれさせてみせる」
という、願いをおこされたのですから、
大宇宙の諸仏の浄土がどのように建てられたのか
その浄土に住んでいる人々の善悪をご覧になられて、
その善いところを選び取られ、悪いところを捨てられて、
「すべての人を助けられる最も優れた浄土、
極楽浄土を建立してみせる」
という願いをおこされた、ということです。
また、大宇宙の諸仏方の本願には、
「どのようにすれば救う」
「こうしてこうなった者は助ける」
という条件があります。
しかし、それでは十方衆生は救われません。
そこで阿弥陀仏は、無条件で、ただのただもいらんただで助けるという本願を建てられました。
世間の宗教でも、必ずなんらかの条件がありますが、
「絶対無条件で助ける」
という教えは大宇宙にありません。
だから親鸞聖人は、次に
「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
とほめたたえておられます。
大宇宙の諸仏が建てられなかった誓い
これは、
「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」
と読みます。
「建立」も「超発」も同じ意味で、おこされたということです。
「無上殊勝の願」も
「希有の大弘誓」も同じ意味で、阿弥陀仏の本願のことです。
「無上」とは、これ以上のものがない、
「殊勝」とは、ことにすぐれた、ということですから、
阿弥陀仏の本願は、大宇宙のたくさんの仏様の本願の中でも最高なんだ、ということです。
「希有」とは、大宇宙に2つとない、大宇宙の他の諸仏の建てることのできなかった、ということです。
「大」は変わらない、
「弘誓」とは、阿弥陀仏の本願は、すべての人を助ける
というひろい誓いですから
「弘誓」と言われています。
このような素晴らしい願いは、大宇宙にたった1つしかありませんから、
親鸞聖人は、
「無上殊勝の願を建立された」
「希有の大弘誓を超発された」
と称讃されているのです。
このように
「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所に在して
諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」
とは、親鸞聖人が、
法蔵菩薩がこのやりとりをしてくだされたなればこそ、
親鸞は、この身に救われることができたのだ。
大宇宙に2つとない希有の大弘誓をおこしてくだされたからこそ、
親鸞は絶対の幸福に救いとられることができたのだ。
まったく阿弥陀仏のお力だったなあ。
と讃嘆なさっているお言葉です。