親鸞聖人が『正信偈』を書かれた目的
親鸞聖人が、『正信偈』を書かれた目的は、一体何だったのでしょうか。
それは、『正信偈』の最後の2行に書かれています。
道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説 (『正信偈』の最後の2行)
「道」とは出家の人、
「俗」とは、在家の人。
「時衆」とはその時々のご縁で集まった人たちです。
ですから道俗時衆で、すべての人です。
聖人は「すべての人よ」と呼びかけておられます。
「共」とは、親鸞と共に、
「同心」とは、同じ心になってもらいたいということです。
ですから、すべての人に、親鸞と同じ幸せになってもらいたい。
『正信偈』は、すべての人に、何とか親鸞と同じ心になってもらいたいという目的で書かれたものです。
正信偈の冒頭の意味
では、聖人と同じ心とは何でしょうか。
『正信偈』の冒頭に、
帰命無量寿如来
南無不可思議光 (『正信偈』の最初の2行)
とあります。
これは、親鸞は無量寿如来に帰命致しました。
親鸞は不可思議光に南無致しました。
ということです。
どこに「親鸞は」とあるのかといいますと、これは、隣のお嫁さんのことを書かれたのでもなければ、向かいのおじさんのことを書かれたものでもありません。
聖人ご自身のことを書かれたものです。
ですから、
親鸞は無量寿如来に帰命致しました。
親鸞は不可思議光に南無致しました。
となります。
では、「無量寿如来」とはどういう意味でしょうか。
「無量寿如来」も、
「不可思議光」も、同じ意味で、阿弥陀仏のことです。
ですから、
親鸞は阿弥陀仏に帰命いたしました。
親鸞は不可思議光に南無致しました。
ということです。
次に「帰命」とか「南無」とはどういう意味でしょうか。
「南無」と「帰命」は同じ意味で、
「南無」は昔のインドの言葉、
「帰命」は昔の中国の言葉です。
仏教は2600年前、インドでお釈迦様が説かれ、中国へ伝わり、朝鮮半島をへて日本へ伝えられましたので、インドの言葉も中国の言葉も使われています。
では、日本の言葉ではどういう意味でしょうか。
日本の言葉で言うと、救われた、助けられたということです。
ですから、この『正信偈』の冒頭の2行は、
親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ。
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ
ということです。
ではなぜ同じことを2回繰り返されているのでしょうか。
私たちも、同じことを2回繰り返すことがあります。
例えば、長い間停電で困っていたところ、ある時パッと電気がついたとき、
「ついたついたついた…」と言います。
長い間待ち望んでたものがきた時、
一回言えばわかるのに
「ついた」
という人はいません。
聖人は、言っても言っても言い尽くせない喜び、
書いても書いても書き尽くせない喜びを、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と『正信偈』の冒頭に表しておられるのです。
この阿弥陀仏に救われたことを『歎異抄』では、
「無碍の一道」と言われています。
また、分かりやすい言葉でいいますと、何があっても絶対変わらない、
「絶対の幸福」ということです。
この絶対の幸福になることこそが「人生の目的」であり、「生きる意味」なのです。
正信偈で教えられていること
この『正信偈』の冒頭にまず教えられていることは、
阿弥陀仏の救いは、死んでからではないんだ。
この世で絶対の幸福に救われたという決勝点があるんだ。
ということです。
阿弥陀仏の救いが死んでからと思っていては、聖人と同じ心になれませんので、まず、『正信偈』の冒頭に、目的地をハッキリと示されています。
『正信偈』は、聖人が、
どうしたらすべての人に親鸞と同じ心になってもらえるか、
どうしたら、無碍の一道まで導くことができるかと、
一字書かれては一粒の涙を流され、
一字一涙の思いで記されたものなのです。
そんな『正信偈』の意味が分からなかったら、親鸞聖人の御心にかなわず、大変もったいないことになってしまいます。
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