龍樹大士出於世 悉能摧破有無見

原文 書き下し文
龍樹大士出於世 (龍樹大士、世に出でて、)
悉能摧破有無見 (悉く能く有無の見を摧破し)

目次

  1. 死んだらどうなる?
  2. ”私”はどこに?大号尊者
  3. 肉体が入れ替わっても”私”
  4. 断見を否定し、永遠不滅の生命を説く仏教
  5. 諸法無我
  6. 固定不変の霊魂を否定し、後生の一大事を説く仏法


「有の見」「常見」
 …死後変わらぬ魂が
  存在する
「無の見」「断見」
 …死後何も無くなる

死んだらどうなる?

人間死んだらどうなるか。
有史以来、種々に議論されてきましたが、大別すれば、

有の見」と
無の見」の二つになります。

有の見」は「常見」ともいい、
死後変わらぬ魂が存在するという考え方です。
無の見」は「断見」ともいい、
死後何も無くなるという見方です。

断見・常見ともに仏教では、真実を知らぬ外道と教えられ、龍樹菩薩は、この有無の二見を徹底的に打ち破られました

”私”はどこに?大号尊者

「”とは何ですか?」と尋ねると、
頭のてっぺんから足のつま先まで、自分の身体を指さして、「これが私」と答え、
だから死ねば焼いて灰になって終わり。死後なんてないよ
と思っている人がありますが、仏教にこんな話があります。

 釈迦に大号尊者(だいごうそんじゃ)という弟子があります。
 彼が商人であったとき、他国からの帰途、道に迷って日が暮れました。
 宿もないので仕方なく、墓場の近くで寝ていると不気味な音に目が覚めます。
 一匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやって来るではありませんか。
 急いで木に登って震えながら眺めていると、間もなく青鬼がやって来ました。

 「その死体をよこせ」と青鬼が言います。
 「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」という赤鬼と大ゲンカがはじまりました。

 その時です。
 赤鬼は木の上の大号を指さして、
 「あそこにさっきから見ている人間がいる。あれに聞けば分かろう。証人になってもらおうじゃないか
 と言い出しました。

 大号は驚きました。いずれにしても食い殺されるのは避けられません。
 ならば真実を言おうと決意します。
 「それは赤鬼のものである」と証言。
 青鬼は怒りました。大号を引きずり下ろし、片足を抜いて食べてしまいました。
 気の毒に思った赤鬼は、誰かの死体の片足をとってきて大号に接いでやりました。

 激昂した青鬼は、さらに両手を抜いて食べます。
 赤鬼はまた、他の死体の両手を取ってきて大号につけてやりました。
 青鬼は大号の全身を次から次に食べました。
 赤鬼はその後から、大号の身体を元どおりに修復してやります。
 青鬼が帰った後、
 「ご苦労であった。おまえが真実を証言してくれて気持ちが良かった」と赤鬼は礼を言って立ち去りました。

 一人残された大号は、歩いてみたが元の身体と何ら変わりません
 しかし今の自分の手足は、己の物でないことだけは間違いありません
 どこの誰の手やら足やら、と考えました。
 街へ帰った彼は、「この身体は誰のものですか」と大声で叫びながら歩いたので、大号尊者とあだ名されるようになったといわれます。

肉体が入れ替わっても”私”

古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、
万物は流転する(パンタ・レイ)」
という有名な言葉を残しています。
すべてのものは、変化し続け、一時として同じではないということです。

同じ川に二度めに入った時は、川の流れも自分自身もすでに変わっている」からです。

こんなこばなしがあります。

 ある男が借金をしました。
 債権者がとりたてに行ったところ、
 「借りた人間と、オレは別人だ。
 なにしろパンタ・レイだからね

 と返済を断りました。

 怒った債権者は、その男をポカポカ殴り、ケガさせます。
 「何をする!」と腹を立て、殴られた男は裁判所に訴えたが、
 殴った男は、
 「殴った人間と、オレとは別人だ。
 なにしろパンタ・レイだからね
」とやり返したといいます。

断見を否定し、永遠不滅の生命を説く仏教

肉体がどんなに変化しても、自分のした行為に責任を持たなければならないのは当然でしょう。

してみれば、そこには一貫して続いている統一的主体を認めなければなりません。

仏教では、私たちの行為を「」といいます。
は目に見えない力となって残り、決して消滅しません。
これを「業力不滅」といいます。

そして必ず果報を現します。
いわゆる「まかぬタネは生えませんが、まいたタネは必ず生える」と教えられます。
肉体を入れ替えても、焼いて灰にしても、業力不滅なるがゆえに、その業報を受けなければなりません。

ここに仏教では、死後も存続する不滅の生命を教え、死後(後生)を否定する「無の見」を、

因果応報なるが故に、来世なきに非ず。
               (阿含経)

と排斥しています。

では後生を説く仏教は、死後変わらぬ魂が有るとする、「有の見」ではないか、と思うかもしれませんが、そうではありません。


諸法無我

仏教では「無我」と教えられます。
固定不変の我というものは本来ありません

つまり有の見のような、死んでも変わらない魂というものはない、ということです。

そして、あらゆるものは因縁所生のものと説かれます。
因と縁が結びついて、仮にでき上がっているものということです。
昔の人はこれを、

引きよせて 結べば柴の 庵にて 
    解くればもとの 野原なりけり

と教えています。

」というものは、野原の柴を集めて結べばできますが、
縁がなくなってバラバラになれば、元の野原になります。

一時、というものがあるのであって、変わらぬ「」というものがあるのではありません。

でも、因縁で色々のものが集まって作られています。

柱、土台の石、壁、畳、かわら、ふすま、などが集まって、あのような形になっているものを「」といっているのです。
因縁が離れてバラバラになれば、家はどこにもありません。
家というものが、いつまでもあるように思いますが、やがて因縁がなくなれば、跡形もなくなりますから、「」という固定不変の実体はないのです。

因縁のある間だけ家ということです。

自動車ならば約3万個の部品が、因縁和合して、あのような形にできあがっている間、「自動車」といわれるのです。
部品が散乱していたら、誰も自動車とはいわないでしょう。

日本のロケットH-IIなら、実に約28万個の部品が、精密に組み合わさっている間、ロケットなのです。

例外なく皆そうです。
これを仏教で「諸法無我」といわれます。
”私””私”と言っていますが、変わらぬ「」という実体はないということが、無我です。
仏教の深い哲理ですが、分かりやすく言うとそういうことです。

固定不変の霊魂を否定し、後生の一大事を説く仏法

仏教では、私たちの永遠の生命を「阿頼耶識」といわれ、「暴流(ぼうる)のごとし」と説かれています。

暴流」とは滝のことです。遠くから眺めれば、一枚の白布を垂らしたように見える滝も、実際にはたくさんの水滴が激しく変化しながら続いているのです。

そのように「阿頼耶識」は、自分の行為を次から次と業力としておさめて、絶えず変化し、流転輪廻していくのです。
ゆえにお釈迦さまは、

無我なるが故に、常有に非ず。(阿含経)

といわれ、
固定不変の霊魂を否定されています

だから、死ねば魂が墓の下にジッととどまったり、山や木や石に宿り、いつまでも残っていることなどできないと教えられます。

ましてや、その霊魂が生きている人間に禍福を与える力があるなどと説くものは、迷信だと打ち破られているのです。

すべての人は、各自の造った業によって、死ねば種々の形に心身が変化し、遠く独り去っていくものであると、次のようにお釈迦さまは説かれています。

遠く他所にいたりぬれば能く見る者なし。
善悪自然に行を追いて生ずる所、
窈窈冥冥(ようようみょうみょう)
として別離久しく長し。
道路同じからずして
会い見ること期なし、
甚だ難く甚だ難し、
また相値うことを得んや。(大無量寿経

”遠く他の所へ去ってしまえば、再び会い見ることはできない。
独り一人の造った善悪の業により、次の生へと生まれ変わっていく。
行く先は遠く、暗くしてたよる道もなく、愛する者とも永劫の別れをしなければならぬ。
各自の行為が違うから、死出の旅路は孤独なのである”

親鸞聖人は、

一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
(親鸞聖人『教行信証』)

といわれ、蓮如上人は、

われらが今度の一大事の後生
(蓮如上人『領解文』)


と言われているとおり、
すべての人の後生に一大事のあることを教え、その解決の道を説示されているのが仏法です。

龍樹菩薩が、有無の二見をことごとく破られたのは、後生の一大事を説く正しい教えを明らかにするためでした。
それが次の、

宣説大乗無上法

ということです。

では、その後生の一大事の解決の道を、龍樹菩薩はどのように明らかにされたのでしょうか

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