源信広開一代教 偏帰安養勧一切
原文 | 書き下し文 |
---|---|
源信広開一代教 | (源信広く一代の教えを開きて) |
偏帰安養勧一切 | (偏に安養に帰して一切を勧む) |
目次
源信僧都は幼い頃どんな方だったの?
「源信」とは、約千年前の日本の人で、有名な『往生要集』を書かれた源信僧都のことです。
親鸞聖人は、この源信僧都を、七高僧の六番目に挙げて、
「源信僧都のお導きがあったなればこそ、親鸞は、弥陀に救われることができたのだ」
と、ほめたたえておられます。
源信僧都は、平安時代の中頃に、大和の国(現在の奈良県)に生まれられ、幼名を千菊丸といいました。
千菊丸、七歳の時のことです。
一人の旅の僧が、村に托鉢に訪れました。
昼になり、川原の土手に腰を下ろして、弁当を食べ始めました。
いつの間にか、周囲に村の子供たちが集まり、物欲しそうなまなざしで、僧を見つめています。
子供たちの格好はいかにも貧乏そうで、ボロ着に荒縄の腰ひも、髪の毛は汚れて乱れたまま無造作にもとどりを結わえてあります。
浅黒い顔に鼻汁を垂れている者もあります。
中に一人だけ、鼻筋の通った、いかにも利発そうな子がいるのに気づきました。
千菊丸です。
やがて食事を終えた僧侶は、川原で弁当箱を洗い始めました。
前日からの雨で、水が濁っています。
構わず洗っていると、千菊丸が近づいて言いました。
「お坊さん、こんなに濁った水で洗ったら、汚いよ」
わずか六、七歳の子供に、もっともらしく注意されて、「何を生意気な」と内心思いましたが、あらわにするのも大人げない。
平静を装ってこうさとします。
「坊や、浄穢不二ということを知ってるかい。
世の中には、きれいなものも、穢いものも、ないのじゃよ。
それを、これは浄い、これは穢いと差別しているのは、人間の迷いじゃ。
仏のまなこからご覧になれば、きれいも穢いも、二つのことではない、浄穢不二なのだよ」
そう聞いて千菊丸、即座に反問しました。
「浄穢不二なら、なぜ弁当箱を洗うの?」
当意即妙とはこのことでしょう。
僧侶は二の句が継げず、あぜんとしました。
”このこざかしい小僧!”
わずか七つの子供に、自分が持ち出した仏語を逆手にとられ、何とも気持ちがおさまりません。
一方、千菊丸は何事もなかったかのように、すぐに川原へ行っては、ほかの子供たちと石投げをして遊んでいる。
”あんな子供に!”
何とか一矢報いてやらねば立ち去れません。
”よし、これだ”
と一策思いついた僧は、無邪気に戯れている千菊丸に近づいていきました。
「おい坊や、おまえさんは、大層利口そうだが、十まで数えられるかい」
「うん、数えられるよ、お坊さん」
「そうかい、それなら数えてごらん」
「いいよ、一ツ、二ツ、……九ツ、十」
僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
「坊や、今おかしな数え方をしたな。一ツ、二ツと皆、ツをつけていたのに、どうして十のときだけ十ツと言わんのじゃ」
と、底意地の悪い質問をしました。
”どうじゃ、今度は答えられんじゃろ”
と内心ほくそえんだ次の瞬間、
「そりゃ坊さん、五ツのときに、イツツとツを一つ余分に使ったから、十のときに足りなくなったんだよ」
”なんと……”
またしても完敗です。
あまりにも鮮やかな反撃に、もはや憎らしいの思いは失せていました。
”惜しい。こんな優れた子を田舎においておくのは。
出家させたらどれほどの人物になるやも知れぬ”
と、すっかり千菊丸の才気に惚れ込んでしまった僧侶は、
「そなたは大層賢いのお。
ご両親にお会いして、ぜひとも頼みたいことがある。
案内してもらえんか」
すでに千菊丸に父はいないというので、村はずれのあばら家に母親を訪ね、懇願しました。
「私は比叡山で天台宗の修行をする者。
今日たまたま会ったお子さんの、あまりにも利発なことに驚きました。
失礼ながら、これほどの才能を田舎に埋もれさせてしまうのは、いかにも惜しくてなりません。
どうか私に預けては下されませんか。
出家の身となられれば、さぞや立派な僧侶となられることでしょう」
結果、千菊丸は、その僧侶の師・良源の弟子になる決心をして、九歳の時に、比叡山に入りました。以来、閑静な仏教の聖地・叡山にて、千菊丸、後の源信は、一心不乱に天台教学の研鑚に励まれるのです。
比叡山時代
元来、才知卓抜な源信が、よき環境に包まれて学問修行を続けたのですから、その上達ぶりはめざましく、全国から俊秀が結集した叡山においても、なお頭角を現し、15歳の頃には、叡山三千坊ーに傑出した僧侶として、源信の名を知らぬ者はいないほどにまでなりました。
そのころ、時の村上天皇から叡山に勅使が下り、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、講釈を聞きたい」という天皇の意志を伝えてきました。
当時の仏教界は、国家権力の手厚い保護のもとに発展を約束されていましたから、天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の動向に連なっていました。
そのため、派遣すべき僧侶の人選は慎重を極めましたが、一山の首脳の衆議の結果、白羽の矢が立ったのが、源信でした。
源信は光栄に感激しつつ、全山の期待を担って村上天皇の元に赴きました。
そして群臣百官の居並ぶ前で堂々と、『称讃浄土教』(『阿弥陀経』の異訳本)を講説したのです。
年若い源信の、豊かな才覚と巧みな弁舌に感嘆した村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたはいくつか」
と尋ねたが、15と聞いてさらに驚嘆しました。
褒美として、七重の御衣や金銀装飾の香炉箱など、多くの物を与えられ、さらに「僧都」という高位の称号を受けられたのです。
使命をまっとうして帰山する源信に、叡山は惜しみない賛辞を送りました。
一躍僧都となり、天下に名声を博した源信の喜びと得意は、察するに余りありましょう。
母を思う源信は、自身の出世をどんなにか喜んでくださるに違いないと、さっそく、事の始終を手紙にしたため、褒美の品々とともに郷里へ送りました。
ところが、しばらくして荷物が、封も切られぬまま突き返されてきました。
しかも、添えられた母の歌は、実に意外でありました。
後の世を 渡す橋ぞと 思いしに
世渡る僧と なるぞ悲しき
源信は、母の心が瞬時に分かりました。
「おまえを仏門に入らせたのは、苦悩の人々に、後生救われる道を伝える僧侶になってもらいたい。それ一つのためでした。
ところが今のおまえはどうでしょう。名利を求め、処世の道具に仏法を使うとは、何と浅間しい坊主に成りはててしまったことか。
天皇とて仏のまなこからご覧になれば、迷いの衆生。
そんな者にほめられて有頂天になっているとは情けない限りです。
なぜに仏にほめられる身にこそ、なろうとしないのですか」
浮かれる心を見透かされた母君の、恐ろしいまでの叱責に、迷夢から覚める思いでありました。
道を踏み外したわが子を悲しまれる徹骨の慈愛に、翻然として己の非をさとった源信は、たちどころに褒美の品々を焼却し、僧都の位をも返上したのです。
名利を求める心を固くいましめて、決意新たに後生の一大事、解決を求めました。
いつの世も、子供の社会的な成功を願い、実現して家や車をプレゼントされようものなら、泣いて喜ぶ親が多いのではないでしょうか。
出世を誇るわが子を、心を鬼にして叱りつけた母。
その母心に敏感に猛省した源信。いずにも驚かずにおれません。
「この母にして、この子あり」とは、これを言うのでしょう。
すべての人が救われる唯一の道とは
死に物狂いで魂の解決に向かった源信が、
峻烈な修行を重ねるほど思い知らされてくることは、その厳しさをうぬぼれる恐ろしい心、煮ても焼いても食えぬ、お粗末な自己の本性でありました。
身につけた天台の教学は、良源門下三千人の中でも他の追随を許さず、主な聖教は暗誦するほどでありましたが、学問を究めるほど、その深さをひそかに誇るという有り様。
捨てたはずの名利の心は、少しもやむことがなかった。
無常迅速のわが身、悪業煩悩の自己、理においては充分すぎるほど分かっていながら、本心においては少しも後生の一大事に驚く心がない。
愚かというか、アホというか、迫りくる一大事を前にしてなお、仏法を聞こうという心を持ち合わせていない。
その悪を懺悔する心もない。
こうなればただの悪人ではなく、極重の悪人というべきか。
道心堅固な聖者には進みえても、私のような頑魯(頑固で愚か)の者には、とても後生の解決は達せられない。
どうすればよいのか。
ついに源信僧都は、叡山北方の森厳たる谷間の地、横川の草庵にこもって、極重悪人の救われる道を、求めるようになったのです。
横川の草庵においても、源信の煩悶の日々は続きました。
来る日も来る日も、寝食忘れて経典やお聖教をひもとき、一大事の解決の道を求めました。
やがて歳月は容赦なく流れ、40歳を過ぎたころ、たまたま目にした中国の善導大師の著書に、深い感銘を受けます。
大師のご指南にしたがって、
阿弥陀仏の本願こそが、万人の救われる唯一の道であることが知らされ、ついに、弥陀の誓願不思議に救い摂られたのです。
後世に大きな影響を与えた「往生要集」
母にもこの真実伝えたい。
すぐさま故郷の大和国を目指して旅立ちました。
ところが、すでに母は年老いて病床の身となって、明日をも知れない容態でした。
使いの者より母の病状を知り、夜を日に継いで家路を急ぎました。
ようやく30年ぶりのわがへたどり着いた源信僧都は、今まさに臨終を迎えようとしている母に、精魂込めて説法します。
「母上、どうかお聞きください。
後生救われる道は、本師本仏の阿弥陀仏に一心に帰命するよりほか、ないのです。
後生くらい心をぶち破ってくださる仏は、阿弥陀仏しかましまさぬのです」
やがて母君も、弥陀の本願を喜ぶ身となり、浄土往生の本懐を遂げたといわれています。
源信僧都は、母の往生に万感極まり、こう述懐されています。
我来たらずんば、恐らくかくの如くならざらん。
ああ、我をして行をみがかしむる者は母なり。
母をして解脱(後生の一大事の解決)を
得しめる者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。
これ宿契(遠い過去世からの不思議な因縁)なり。
母の野辺送りのあと僧都は、横川の草庵に帰り、
母の往生を記念して一冊の書物を著されました。
世に有名な『往生要集』です。
以後、源信僧都は『往生要集』とともに浄土仏教の大先達として、後世にも多大な影響を与え、76歳にして生涯を閉じられたのです。
源信広く一代の教えを開きて
その源信僧都を親鸞聖人は、
「源信僧都のお導きがあったなればこそ、親鸞は、弥陀に救われることができたのだ」
と、ほめたたえておられるのが
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
のお言葉です。
「源信」とは、源信僧都のこと。
「広く」とは「徹底的に」ということです。
「一代の教」とは、今から2600年前、インドに現れたお釈迦様が、80歳でお亡くなりになられるまで教えてゆかれた、釈迦一代の教え、今日の仏教のことです。
釈迦一代の教えは、すべて書き残され、その数は七千冊以上にのぼり、一切経と言われています。
源信僧都は、その七千余冊の一切経を幾たびも読み破られ、「後生の一大事の解決できる教えが、どこかに説かれてないか」と、必死に探し求められたことを、
「源信広く一代の教を開きて」と、言われています。
その結果、
「極悪の源信の救われる道は、偏に安養に帰する以外になかった」
と知らされたことを「遍に安養に帰して」と仰っているのです。
「安養」とは、阿弥陀仏のことですから、
「遍に安養に帰す」とは、
「私の後生の一大事を助けたもう仏は、ただ弥陀一仏しかなかった」と言われています。
すでにお釈迦様は、
「無量寿仏に一向専念せよ」と仰っています。
「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことですから、
「弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ。
その他にすべての人の救われる道はないのだ」
と言われているのです。
この釈迦のご金言どおり、源信が弥陀に救い摂られたことを、「源信、偏に安養に帰して」と言われているのです。
次の、「一切を勧む」とは、それから源信僧都がこの真実の教えを、「一切の人々に、皆さんも、偏に弥陀一仏を信じなさいよ」と、終生、教え勧めてゆかれたことを、親鸞聖人は、
「偏に安養に帰して、一切を勧む」と言われているのです。