憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

原文 書き下し文
憶念弥陀仏本願 (弥陀仏の本願を憶念すれば)
自然即時入必定 (自然に即の時必定に入る)

目次

  1. 弥陀仏の本願とは?
  2. 憶念とは?
  3. いつとはなしに憶念される?
  4. 一念とは?

弥陀仏の本願とは?

ここは、親鸞聖人が、尊敬する七高僧の第一、インドの龍樹菩薩のお言葉を引用されて教えられているところです。

弥陀仏の本願を憶念すれば」とは
弥陀仏の本願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
大宇宙に数え切れないほどまします仏方の、本師本仏の阿弥陀仏の本願のことです。

本願」とは「誓願」とも言われるようにお約束のことです。

では、阿弥陀仏はどんなお約束をなさっておられるのかと言いますと、
どんな人をも 必ず一念で助ける 絶対の幸福に」と誓われています。
その阿弥陀仏の本願を、「弥陀仏の本願」と言われています。

憶念とは?

次に「憶念」とは、
」もおもう
」もおもう
という字です。

ですが「」のおもうというのは、時々思う。
」は「明記不忘」というおもい方です。
明記」とは、手帳にハッキリ書くように、明らかに記すということです。

ということは、いつも、間断なく、途切れない、忘れない、そういうおもい方が「明記不忘」です。
忘れるということがない心が「」ですね。

阿弥陀仏の本願、まことであった、ということがハッキリと心に徹底します。心に記されるということです。
そして、それはどんなことがあっても、その心は途切れることなく続く、ということです。

ところが煩悩の雲があって、心をかくすわけですが、明記不忘とハッキリした、救われた心があります。

その上に煩悩の雲や霧がありますが、念は途切れることなくハッキリしています。

    憶
~~~~~↑~~~~↑~~~~~

    念

ところが、縁がありますと、雲の間から思い出されます。
これが、憶の心です。
時々おもうということです。

時々思えてくるということがあるのは、明記不忘の絶えず途切れず、救われたことがハッキリしてないと、この憶が出てきません。
念から憶が出てきます。

それはちょうど、地下へ掘って行くと、地下何百メートルに、地下水が流れています。
絶えず流れていますが、地上の人は見えません。
ところが掘っていくと、地下水が噴き出してきます。それで、地上の人も見えます。

それは、地下水があって初めて出てきます。
この地下水があるところまで掘った時、地上に噴き上がってくるのです。

地上に噴き上がっているものは、所々からです。

 Y  Y  Y   地上
 │  │  │
 │  │  │
 │  │  │
 │  │  │
~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 地下水

地下水は常に流れていて、とぎれとぎれではありません。絶えず一貫して流れています。

地上にあらわれるのは、ところどころです。

地上にあらわれるのは、時々おもう「」です。
後は世間事ばかりに迷わされています。

ですが、時々救われたことが思い出されてきます。
それは阿弥陀仏に救われた、明記不忘の「」の心が腹底にあるからです。

どんなに欲をおこして狙っている時でも、腹を立てている時でも、ずーっと続いているのですが、それが「」です。

憶念」の心になるのが、阿弥陀仏の本願まことであった、とハッキリした時です。

阿弥陀仏に救い摂られないと、憶念の心にはなりません。

ですから、ここで龍樹菩薩が言われている憶念とは、阿弥陀仏に救い摂られたことです。

阿弥陀仏の本願まことであった、と知らされたというのが憶念の意味です。

では、仏教を聞いていると、やがていつとはなしに、阿弥陀仏の本願が憶念されてくるのでしょうか?

いつとはなしに憶念される?

次に親鸞聖人は
自然に即の時必定に入る
と教えられています。

これを「しぜんに必定に入る」
「いつとはなしに御信心は頂ける」
と解釈している人がありますが、そうではありません。

まず「自然」というのは、
世間では「しぜん」と読みますが、
仏教では「じねん」と読みます。

自然科学の自然とは意味が違って
親鸞聖人が使われた時には
阿弥陀仏のお力」「他力」という意味です。

次に「即の時」とあります。
即の時は、「いつとはなし」でも「だんだん」でもなく、一念ということです。

一念とは?

一念」とは、親鸞聖人が

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(教行信証

と教えられていますように、
絶対の幸福に救われる、何億分の一秒よりも速い時を言います。

次の「必定」とは、
正定聚(いつ死んでも仏になれるに定まった位)のことで、絶対の幸福のことです。

蓮如上人はこれを、

「一念発起・入正定之聚」とも釈し
            (御文章

と教えられています。

阿弥陀仏は
どんな人をも 必ず一念で助ける 絶対の幸福に」とお約束しておられますから、一念です。

このように
弥陀仏の本願念仏を憶念すれば、自然に即の時必定に入る
とは、親鸞聖人が、
阿弥陀仏の本願を信ずれば、まったく阿弥陀仏のお力によって一念で絶対の幸福になれる」と教えられたお言葉です。

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