往還廻向由他力
原文 | 書き下し文 |
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往還廻向由他力 | (往還の回向は他力に由る) |
目次
- 廻向とは?
- 1自力廻向とは?
- 世間の宗教で行われる廻向は?
- 2他力廻向とは?
- なぜ世間では自力廻向ばかりなの?
- 親鸞聖人は?
- 他力廻向の2つとは?
- 他力廻向1 往相廻向とは?
- 他力廻向2 還相廻向とは?
- 親鸞聖人の御遺言
- 他力とは?
- 名号を頂くと?
- 慈悲の働きとは?
- お釈迦さまが過去世、鳩だったとき……
- 仏法者の心得
- それはいつ頂ける?
廻向とは?
往還廻向由他力
これは、
「往還の廻向は他力に由る」
と読みます。
曇鸞大師は
「往還の廻向は他力による」と明らかにしてくだされた、すばらしいと、親鸞聖人が手を叩いて喜んでおられる所です。
「往還の廻向」とは、
「往」は往相廻向
「還」は還相廻向のことです。
「廻向」はえこうと読みます。
意味は、差し向けるとか、与えるということですが、仏教では「廻向」に2つあります。
「自力廻向」と「他力廻向」の2つです。
1自力廻向とは?
「自力廻向」とは、私たちが、善いことをして、その善根功徳を、仏様など、他に差し向けることをいいます。
仏教以外にも、世間にたくさんの宗教がありますが、それらの人たちは、ほとんどみな、「自力廻向」しか知りません。
例えば、親や子供が死ぬと、葬式はできるだけ盛大にしようとします。
親戚や近所の手前、見栄をはりたいという心もありますが、そうすれば死んだ人が喜ぶだろう、という心もあります。
死んだ人が苦しいところにおちているとすれば、長いお経を読んでもらえば、その間だけでも少しは楽になるだろう、少しは浮かばれるだろう。
そのためには沢山のお布施を包んで出そう。
それによって死んだ人が喜ぶと思うのは、自分がした善根功徳を、死んだ人のために与えようとしているわけです。
友達が交通事故なんかで死にますと、香典を持ってその友達のうちにいって、線香を立てて冥福を祈ります。
あいつ悪いことばっかりやっていたから、今頃苦しんでいるだろう。
何とかその苦しみがやわらぐようにと、線香を立てたり、ろうそくを立てたりします。
こういうのを自力廻向といいます。
私たちが、自分のやった善根功徳を、死んだ人や、仏や神へ差し向けるのです。
世間の宗教で行われる廻向は?
そうなりますと、世間の宗教行事でなされていることは、ほとんどすべて自力廻向です。
元旦には沢山の人が宮へ参って賽銭を投げます。
神にお金を与えて、今年一年、商売繁盛、家内安全、ありとあらゆるご利益が頂けますように、と頼んでいます。
さらには大きな鈴をがらんがらんならして、柏手を打って、「よく見ていてくださいよ」と念を押しています。
自分のした善根功徳を、神に認めてもらって、これで助けてくださいと祈ります。
このような、自分の善根功徳を、死んだ人や仏や神に与えることによって、守ってもらおうとか、幸せになろうとすることを、自力廻向といいます。
2他力廻向とは?
それに対して「他力廻向」とは、阿弥陀仏が、私たちに与えてくだされることです。
「他力」とは、阿弥陀仏のお力ですから、他の仏様はありません。
阿弥陀仏が私たちに与えてくだされることを「他力廻向」といいます。
これは、一方的です。
私たちは、阿弥陀仏にさしあげるものは、何も持ち合わせていませんから、私たちから阿弥陀仏に廻向するものはゼロです。
私たちの持っているものといえば、罪や悪ばかりですから、マイナスの財産しか持たないのです。
だから阿弥陀仏が一方的に、私たちに与えてくだされることを「他力廻向」といいます。
このように、自力廻向は、私たちが、死んだ人や、仏や神に、自分のやった善根功徳と思っているものを与えようとします。
他力廻向は阿弥陀仏が私たちへ与えてくだされますから、まったく逆です。
自力廻向
私→死人・神・仏
他力廻向
私←阿弥陀仏
このように「廻向」といっても、自力廻向と他力廻向の2つあります。
ところが、世間の人たちのやっているのは、すべてといってもいいくらい、自力廻向です。
なぜ世間では自力廻向ばかりなの?
その元はどこにあるかというと、「私は、痩せても枯れても何か与えるもの持っているぞ」と思っている所にあります。
自分が何も持たないとすれば、与えることができませんから、自力廻向は成り立ちません。
自分は与えるものを持っていると、自惚れているのです。
それが徹底的に、自分は罪悪しか持ち合わせていないとハッキリと知らされた人は、自力廻向はありえません。
親鸞聖人は?
親鸞聖人も、9歳から29歳までの20年間、比叡山で命がけの修行をなされたのは、善根功徳を積んでいかれたということですから、自力廻向を一生懸命されたということです。
他力廻向があるなどということは、29歳で法然上人にお会いするまでは、まったく知らなかったので、一生懸命、自力廻向をしようと頑張られたのです。
それは親鸞聖人だけではなく、当時の人たちはみんなそうでした。
今日でも自力廻向ばかりです。
古今東西の人は廻向といったら、自力廻向しか知りません。
ということは、みんな自惚れて、自分は与えるものもっているんだ、と思っているのです。
持っているのは、罪悪という借金しかないことには、全く気付いていません。
親鸞聖人は、法然上人に巡り会われ、自分は罪悪しか持ち合わせていない、と知らされられました。
『歎異抄』には、
いづれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし
(『歎異抄』)
いづれの行も及び難き親鸞と知らされた、と言われています。
「一つの善もできない親鸞だった」
何一つ与えるもののない親鸞だと知らされた。
だから地獄はとても一定すみかぞかし。
借金しかない親鸞だと知らされた。
そこに、阿弥陀仏が一念で与えてくだされた。
これが他力廻向です。
そこではじめて親鸞聖人は、他力廻向を体験されたのです。
曇鸞大師が「往還の廻向は他力による」と教えられたのは、自力廻向ではないんですよ、すべて他力廻向なんですよ、ということです。
世間の誰も知らない、他力廻向を教えられたのです。
他力廻向の2つとは?
そして曇鸞大師は
往相廻向も他力廻向、
還相廻向も他力廻向、
阿弥陀仏が私に与えてくだされたものに2つある、と明らかに教えられたので、親鸞聖人は、すばらしい方だと喜ばれています。
曇鸞大師が『浄土論註』に明らかにされたことが、いかにすばらしいことであったのか。
親鸞聖人は、主著『教行信証』の最初に書かれています。
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。
一には往相、二には還相なり。(親鸞聖人『教行信証』)
「浄土真宗」とは、親鸞聖人が明らかにされた真実の仏教ですが、この浄土真宗には、2つの廻向がある。
これは、自力廻向と他力廻向ではありません。
他力廻向に2つある、阿弥陀仏は2つのものをくだされる、ということです。
「一には往相、二には還相なり」
ということは、往相廻向と還相廻向の、往還廻向がある。
これが浄土真宗なんだ、これを明らかにされたのが真実の仏教なんだ、ということです。
親鸞聖人の教えのすべてが書かれた、『教行信証』に何が書かれているかというと、この往還二種の廻向です。
これしか『教行信証』には書いていない、ということですから、これが親鸞聖人の教えのすべてです。
仏教にはこれしかないということです。
では往相廻向、還相廻向とは、どういうことでしょうか。
他力廻向1 往相廻向とは?
まず「往相廻向」の「往相」とは、
「往生浄土の相状」のことです。
「往生浄土の相状」とは、弥陀の浄土に往生するすがた、ということです。
阿弥陀仏から往相を与えて頂くと、いつ死んでも極楽いって仏に生まれられる、往生一定の身になります。
一日たてば一日たつだけ、極楽へ極楽へと近づく身になりますので、これを「往生浄土の相状」略して「往相」といいます。
往相の身になった人は、死ねば、苦しみ悩みの苦悩の里、私たちのいる娑婆世界から、極楽浄土へ往って、仏に生まれます。
┌──┐ ┌──┐
│苦悩│ → │極楽│
│娑婆│ │浄土│
└──┘ └──┘
他力廻向2 還相廻向とは?
次に「還相廻向」の「還相」とは、
「還来穢国の相状(げんらいえこくのそうじょう)」のことです。
「還来穢国の相状」とは、穢国へ還来するすがた、ということです。
穢国とは、穢れた国ということで、苦悩の娑婆世界、私たちの生きている世界のことです。
還来するとは、かえってくるということです。
極楽浄土へ往った人が、苦しみ悩んでいる人を助けるために、苦悩の娑婆世界へ戻ってくる。
これが、還来穢国のすがたです。
┌──┐ ┌──┐
│苦悩│ → │極楽│
│娑婆│ ← │浄土│
└──┘ └──┘
この2つとも、往還の廻向は他力による。
「他力」とは阿弥陀仏のお力ですから、往相も還相もみな阿弥陀仏のお力による。阿弥陀仏がくだされるのだ、ということです。
ですから、苦しみ悩みの世界から極楽浄土へ往くのも、阿弥陀仏のお力です。
極楽浄土から、この娑婆世界へ、苦しみ悩む人助けるためにかえってくるのも、阿弥陀仏のお力です。
往くも他力、かえるも他力、
往くも還るもすべて阿弥陀仏のお力によるのだ。
この真実を、曇鸞大師は『浄土論註』で明らかにされたと親鸞聖人はおっしゃっています。
親鸞聖人の御遺言
このように『教行信証』に書かれた親鸞聖人は『御臨末の御書』に、このようにおっしゃっています。
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。(親鸞聖人)
親鸞聖人はお亡くなりになるとき、
「我が歳きわまった、いよいよこの世の最期だ」とおっしゃって、いよいよ親鸞、浄土へ往くぞ、
「安養浄土に還帰す」と言われています。
これは親鸞聖人の往生浄土のすがたです。
しかし、これでいなくなったと思ったら大間違いだ。
一度は浄土へ往くけれど、またすぐ帰ってくる。
「和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」
和歌山県の片男浪海岸の波が、寄せかけ寄せかけ帰るがごとく、すぐに寄せかけ寄せかけ帰ってくるぞ、と言われています。
これが還来穢国のすがたです。
「だから1人でいるときは2人と思え、2人でいるときは3人と思え、その一人は親鸞だ」
と言われてお亡くなりになっています。
この往相と還相は、すべて阿弥陀仏の力によると教えられているのが
「往還の回向は他力に由る」の正信偈のお言葉です。
他力とは?
次に「他力」とは阿弥陀仏のお力です。
大宇宙のすべての仏方の本師本仏の阿弥陀仏が、すべての力を投入して完成された、南無阿弥陀仏のお力を他力といいます。
阿弥陀仏には、2つの大きなお徳があります。
無量光と無量寿の2つです。
「無量光」とは、
「光」とは力のことですから、限りなき力を持たれた仏ということです。
光とは、智慧のことでもありますから、限りなき智慧を持った仏が阿弥陀仏です。
「無量寿」とは、限りない命を持たれた仏ということです。
無量寿は、慈悲の現れですから、限りなき慈悲の仏が阿弥陀仏ということです。
ですから阿弥陀仏は、智慧と慈悲との覚体です。
限りなき智慧と慈悲との阿弥陀仏が、全身全霊込めて成就された南無阿弥陀仏の名号には、限りない智慧と慈悲とがおさまっています。
名号を頂くと?
その南無阿弥陀仏を体得すれば、仏凡一体、南無阿弥陀仏と一体になりますから、限りなき智慧と、限りなき慈悲を持たせて頂くことができるのです。
智慧を持てば、恐れるものがありませんので、真実を明らかにするために、獅子の如く突き進むことができるようになります。
智慧あるが故に生死にとどまらず
といわれます。
「生死」とは迷いです。
その迷いにとどまらずとは、迷いを容認できない、認めることはできないということです。
智慧あるが故に、迷いをぶち破らざるをえなくなってきます。
親鸞聖人にはそのような、肉食妻帯の決行や秋霜烈日の諍論、長子善鸞の義絶といった、激しいところがあります。
それは阿弥陀仏から頂いた、南無阿弥陀仏の名号の働きです。
迷いにとどまろうとしてもとどめない、智慧あるが故に生死にとどまらずという働きが南無阿弥陀仏にあるのです。
慈悲の働きとは?
智慧だけではありません。
阿弥陀仏は限りない慈悲の仏でもあります。
阿弥陀仏のつくられた南無阿弥陀仏の六字の名号には、その阿弥陀仏の限りない慈悲もおさまっていますから、南無阿弥陀仏を頂いて、身も心も南無阿弥陀仏となれば
慈悲あるがゆえに涅槃に住せず
となるのです。
「慈悲」とは、
「慈」は抜苦、「悲」は与楽のことです。
「抜苦」とは苦しみをとってやりたい、苦しんでいる人を見ると、じっとしておれない心です。
「与楽」とは、それと同時に、楽しみを与えてやりたい、喜びを与えてやりたい、という心です。
ですから慈悲の心というのは、苦しんでいる人を見ておれない、何とか幸せになってもらいたいという心です。
阿弥陀仏の慈悲は底なしの慈悲ですから、苦しみ悩んでいる人が、娑婆世界にたくさんいると知られたら、「自分だけ極楽浄土で楽しんでいればいい」という心にはなれません。
「涅槃に住せず」
涅槃にじっとしておれないのです。
いって助けずにおれなくなってきます。
みんな娑婆世界で苦しんでいますから、「他人は他人、自分だけ救われたらそれでいい」とは思えないのが慈悲の心です。
助けずにおれない。
言わずにおれない。
最後の一人が救われたとき、初めてゆっくりできる。
これは阿弥陀仏の慈悲の働きです。
苦しみ悩んでいる人がいる限り、じっとしておれません。
慈悲あるが故に涅槃に住せず、という働きが南無阿弥陀仏にあるのです。
お釈迦さまが過去世、鳩だったとき……
過去世、まだお釈迦さまが、鳩だったとき、山火事がおきました。
山にはたくさんの獣が住んでいます。
自分と同じ鳥も、きつねやたぬきのような生き物もたくさんいるのですが、その山が火事になったのです。
それを見た、鳩であったお釈迦さまは、近くの湖にいって羽根をぬらしては、山火事の山の上に飛んでいって、自分の羽根の水を落として消そうとしました。それを何度も何度も、くり返し続けられました。
それを見た帝釈天が、
「お前そんなことやっていて山火事が消えると思うか」と聞きました。
山火事となると、人間の力でも消せませんから、自然に鎮火するのを待つだけです。
一羽の鳩が、自分の羽根でパタパタ水を落としても、とても消えるものではありません。
ところがお釈迦さまの鳩は、
「いいえ、消せるか消せないか分かりませんが、せずにおれないのです。
あそこには私の友達がいるんです。
たくさん生き物がいるのです。
みんな焼け死ぬかもしれないのです。
それを見たら、消せるか消せないかなんて問題ではないのです。
こうせずにおれないのです」
と言われて、それを繰り返されたといわれています。
仏法者の心得
それが慈悲というものなのです。
「まず自分が助からなければ」とか、「言っても分かるものではない」というものではありません。
仏法を伝えることは難しいことですが、できる、できぬは論の外。
せずにおれない自利利他に生きる菩薩こそ、仏法者なのです。
だから親鸞聖人の『御臨末の御書』では
親鸞、一度は極楽浄土へは還るけれども
「和歌の浦曲の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」
この迷いの世界から、一切の苦しみ悩める人がなくなるまで、寄せかけ寄せかけ帰ってくる。そうせずにおれないんだ。
海の波は寄せては返し、寄せては返し、無限の往復運動をしています。
苦しむ人が一人でもある限り、じっとしてはおれないんだ。
人間に生まれた本当の喜び満足を知らない人が一人でもいる限り、活動せずにおれない、伝えずにおれない。
こういうのが、慈悲なのです。
私たちもそういう気持ちで、有縁の人に仏法をお伝えしていかなければなりません。
往還二回向はいつ頂ける?
このように、
往相は自利、還相は利他。
阿弥陀仏の智恵と慈悲によって完成した、南無阿弥陀仏を頂いた他力の信心は自利利他なのです。
だから、
慈悲あるがゆえに涅槃に住せず
智慧あるがゆえに生死にとどまらず
となるのです。
それは南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いたとき、一念で往還二回向を頂きます。
往復切符をもらうようなものです。
往相を頂いてから、還相を頂く、ということではありません。
生きているとき、一念同時に頂きます。
その南無阿弥陀仏の働きによって、往相も還相もみななされるんだ。
苦しみ悩みの娑婆世界から私たちが極楽浄土へ往くのも、南無阿弥陀仏の働きによって往けるんだ。
極楽浄土へ往ったならば、この苦しみ悩みの娑婆世界へ衆生済度のために、やむにやまれず来ずにおれないんだ。
そして海の波のごとく、無限に活躍せずにおれなくなってくる。
そうさせる力が、南無阿弥陀仏にあるんだ。
それを曇鸞大師は
「往還の廻向は他力による」
往くも他力なら、還るも他力、
往くも還るもまったく南無阿弥陀仏の独り働きなんだ、と明らかにしてくだされた。
すばらしいお方だと、親鸞聖人がほめたたえておられるところです。