極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
原文 | 書き下し文 |
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極重悪人唯称仏 | (「極重の悪人は唯仏を称すべし) |
我亦在彼摂取中 | (我も亦彼の摂取の中に在れども) |
煩悩障眼雖不見 | (煩悩、眼を障えて 見たてまつらずと雖も) |
大悲無倦常照我 | (大悲倦きこと無くして常に我を 照らしたまう」といえり) |
目次
- 源信僧都の主著『往生要集』
- 極重の悪人はただ仏を称すべし
- 仏法は法鏡
- 仏法を聞くということは?
- なぜ自分の姿が分からないの?
- 法鏡に映った本当の自分の姿とは
- 私たちの3つの行い
- 極重の悪人とは
- 親鸞聖人の告白
- 真実の自己とは
- ただ仏を称すべしとは?
- 阿弥陀仏にそのまま救われると?
源信僧都の主著『往生要集』
極重悪人唯称仏
これは、親鸞聖人が大変尊敬しておられた、七高僧の6番目・源信僧都のお言葉です。
76歳でお亡くなりになりましたが、書き残された本は150巻以上、今日でいえば、150冊以上の本を書かれています。
中でも有名なのは主著『往生要集』です。
一切経を縦横無尽に引用されて書かれている実にすばらしい本です。
この『往生要集』の中に源信僧都の76年間教えられたことすべてが書かれているのですが、どんなことを教えられているのか、親鸞聖人はこのように書かれています。
「極重の悪人は唯仏を称すべし、我も亦彼の摂取の中に在れども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまう」といえり。
極重の悪人はただ仏を称すべし
まずはじめの
「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」
源信僧都の教えられたことは、この一言に尽きます。
「仏を称す」とは、念仏を称えるということですが、「極重の悪人」とは一体誰のことなのか、そんな者はどこにいるのか分からないと、「ただ仏を称すべし」と教えられた源信僧都の心は分かりません。
「極重の悪人」とは、極めて罪の重い悪人のことで、最も罪の重い悪人ということです。
「あの人は悪い人だ」と思う人はいくらでもありますが、極重の悪人と言われているのは、どういう人なのでしょうか。
お釈迦さまは臨終に、「仏法は法鏡である」と言われてお亡くなりになっています。
仏法は法鏡
お釈迦さまの説かれた仏法は、「法鏡」だということです。
「法」とは、ありのままということです。
曲がったものなら曲がったもの
赤いものなら赤いもの
黒ければ黒いもの
白ければ白いもの
三角は三角として
四角は四角として
ありのままということが「法」ということです。
仏法は法鏡ですから、私たちの姿をありのままにうつして見せてくれる鏡ということです。
鏡を見るということは、その鏡を見てうつったものを知るということです。
仏法を聞くということは?
仏 法\│
法=鏡\│
\│
\├───←───←───←
\│
\│
\│
私たちが仏法を聞くということは、この縦の線の所に鏡があって、その鏡に近づくということです。
鏡がずっと向こうにあって、大分鏡から離れているときは「おれもまんざらではないな」と思います。
だんだんだんだんこの人がこの鏡に近づいていくと、本当にきれいな人ならば、きれいな自分の姿がハッキリ見えてくるでしょうが、この人が醜い姿をしていれば、鏡に近づけば近づくだけ醜い姿に驚きます。
右端にいて鏡を見ていたときは、まんざらでもないなと思っていたのが、鏡に近づくにつれて、「自分にはこんなに、しわやら、あざやらあったのか」と驚きます。
仏法を聞くということは、この鏡に近づいていくということですから、仏法を聞けば聞くだけ、本当の自己が知らされてきます。
逆に本当の自分が知らされて来なければ、鏡に近づいたとはいえません。
何十年、仏法を聞いていても、本当の自己の姿が分からない人は、仏法を全然聞いていなかったということです。
鏡の前に何十年座っていても、目をつぶっていれば、鏡を見たとは言えません。
また、目を開けていても、鏡の枠や形、材質ばかり見ていれば、鏡を見たことになりません。
鏡を見るということは、自分の姿を見るということですから、だから本当の自分のすがたが分からなければ、仏法聞いたことにならないのです。
本当の自分の姿を知らせるために仏法は説かれ、法鏡が与えられているのですから、仏法を聞けば聞くだけ、本当の自分の姿が知らされてくるのです。
なぜ自分の姿が分からないの?
ところが私たちは自惚れていますから、本当の自分というのはどんなものなのか、お釈迦さまからいくら教えられても、
「ああはおっしゃれども」
「それはああだから、こうだから」
都合のいい理由をつけて、自分をよく見ようとします。
自惚れというのは、自分に惚れるということです。
惚れるというのは好きになるということで、惚れて眺めりゃ痘痕もえくぼで、正しい善悪が判断できなくなります。
惚れてしまうと、その相手が、どんなに悪いことをしていても、悪いとは思いません。
「それは何かわけがあって、ああいうことしたんだろう」
良いように解釈します。
惚れてしまったら、世間中の人が極悪人といっていても、極悪人と思えないのです。
それと同じように、自分にほれたら、自分の悪は全然悪と思えません。
私たちは生まれつき自惚れの塊なので、自分が分からないのです。
絶対に正しく自分を見られません。
だから仏法を聞いていても、自分はまんざらでもないなと思っていますが、それは、本当の自分の姿を知らないのです。
法鏡に映った本当の自分の姿とは
ではお釈迦さまは、法の鏡に映っている私たちの姿を、どのようにおっしゃっているでしょうか。
心常念悪│心、常に悪を念じ、
口常言悪│口、常に悪を言い、
身常行悪│身、常に悪を行い、
曽無一善│かつて一善無し。
お釈迦さまは、これが法の鏡に映った、すべての人間のすがただと説かれています。
私たちの3つの行い
これはまず、私のすがたを心と口と身体の3方面から見ておられます。
これを「身口意の三業」といいます。
私たちが行いをするということは、この3つで何かをおこなうということです。
この3つ以外はありません。
身体で色々のことをやるのは身体の行い、
口で色々のことを話すのは口の行い、
心で色々のことを思うのが心の行いです。
この3つの中でも、心が思わないことは、言いませんし、身体もやりませんから、心で色々思うことは、口や身体の行いの元になっています。
ですから、身口意の3つが色々の行いをしているのですが、一番責任があるのは心です。
もし身体が悪いことをしたならば、もっと悪いのは、そのようにさせた心です。
もし口が悪いことを言ったならば、言った口も悪いですが、もっと悪いのはそういうことを言わせた心だと教えられています。
それでこのお言葉も、一番最初に心はどうかと教えられて、次に口、身体と教えられているのです。
しかも、元である心が悪だと、そこから現れる口も身体も全部悪になるのは、当然です。
この3つが悪ですから、1つもよいことはないということになります。
「これが、本当のお前の姿なんだ。そして、すべての人の姿なんだよ」と法の鏡に映し出されています。
極重の悪人とは
これが、「本当だった、まことこれが私の姿でありました」と知らされたのが「極重の悪人」です。
一つの善もない、心も口も身体も常に悪という悪人ですから、最も悪い、極めて重い悪人です。
「極重の悪人」とは、これが私の姿であると知らされた人です。
源信僧都は、「私は極重の悪人であった」と知らされ、「極重の悪人はただ仏を称すべし」とおっしゃっているのです。
親鸞聖人の告白
親鸞聖人も、「親鸞は、極重の悪人だった」と告白されています。
いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし。
(『歎異抄』)
「いずれの行」の「行」は善い行いです。
心と口と身体の善い行いです。
ですから心でも何とかよいこと思おうと一生懸命した。
口でも何とか悪いこと言わないように、善いことを言うように一生懸命した。
身体でも何とか善い行いをしようとしたけれど、一つもできない親鸞と知らされた、とおっしゃっているのが、「いずれの行も及びがたき身」ということです。
一つの善もできない極悪人ならば、因果の道理で地獄しかありません。
心も口も身体も悪ばかりで、一つの善もなければ、助かる縁手がかりは絶対にありませんから、地獄へ堕ちて当たり前、そこに住みついてしまって、地獄は親鸞の住み家だ。
「地獄は一定」ということです。
「親鸞は、一つの善もできない極重の悪人だった、地獄よりほかに行き場のない親鸞だった、助かる縁手がかりのない親鸞だった」と、法の鏡にうつれている自分の本当のすがたを親鸞聖人は知らされて、それを告白しておられるお言葉です。
真実の自己とは?
これはまた「機の深信」といわれる親鸞聖人のお言葉です。
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
「深信」とは、疑いがなくなった、ということです。
「自身は」とは、親鸞はということです。
「現に」とは、現在ということですが、現在だけではありません。
これまでずーっと、そして永久に、親鸞は罪悪生死の凡夫であった、と言われているのです。
「罪悪生死の凡夫」とは、極重の悪人と同じです。
「昿劫より已来」とは、果てしのない遠い過去から、始まりのない始まりから。
「出離の縁あることなし」とは、未来永遠に助かる縁手がかりのない私であった。
露塵ほどの疑いなく知らされた、「極重の悪人」と知らされたということです。
仏教を聞いて進んで行くと、
「本当の自分は極重の悪人だった」と一念で知らされます。
このようにハッキリ知らされない人は、自惚れていますから、自分は極重の悪人だと思おうとしていても、何とかしたら何とかなれると思っています。
何とかしたら何とかなれる、何とか助かりたいと思うからこそ、この道を進んでいくのですが、何とかしたら何とかなれる人ならば、極重の悪人ではありません。
何ともなれない、出離の縁あることなし、助かる縁が切れた人が極重の悪人です。
「永遠に地獄よりほかに行き場のない私だった」と知らされたのが「極重の悪人」なのです。
源信僧都は、極重の悪人のことを言われているのですから、何とかしたら何とかなれると思っている人は、「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」の一行は読めません。
極重の悪人とはどんなことか分からずに読むと、「ただ念仏さえ称えていればいいんじゃないか」と間違ってしまいます。
法の鏡によって、真実の自己がはっきり知らされた源信僧都が言われているのが、
「ただ、仏を称すべし」ということです。
この「ただ」が、大事です。
ただ仏を称すべしとは?
この「ただ」は、他に何もしないで念仏のみを称えなさい、というただではありません。
このただを間違えると全部間違えてしまいます。
ではこの「ただ」はどんな「ただ」かというと、南無阿弥陀仏の名号を頂いて、無条件で救われた他力の信心です。
極重の悪人と自分の姿が知らされた人に知らされる「ただ」です。
「仏を称すべし」とは、念仏を称えることですが、極重の悪人と照らし出して、そして「そんな者をただで救う」という本願の名号を「ただ」と聞いて、称えずにおれなくなるお礼の念仏です。
ただで救い摂られた人が、
「こんな極重の悪人は、そのまま救いたもうた念仏(名号)を、称えずにはおれないのだ」
と称えずにいられないご恩報謝の念仏です。
一念で極重の悪人と知らされて、そのまま救われた源信僧都は、次に
「我も亦彼の摂取の中に在れども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまう」
と言われています。
阿弥陀仏にそのまま救われると?
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我
「我も」とは、源信僧都のことです。
「摂取の中に在れども」とは、
「私も明らかに、阿弥陀仏の摂取の光明に救い摂られ、絶対の幸福に生かされているが」
ということです。
阿弥陀仏に救われても、欲や怒りや愚痴の煩悩は、死ぬまでとどまらず消えず絶えず、極重の悪人は少しも変わりませんから、
「煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も」
と言われています。
「煩悩がまなこをさまたげ、厳然とまします阿弥陀仏をじかに見ることができないが」
ということです。
だけれども、阿弥陀仏の大慈悲に救い摂られたその時から、未来永遠、阿弥陀仏の光明に抱き取られて行く、
「大悲倦きことなくして、常に我を照らしたまう」
といわれています。
「肉眼で直接拝見できなくても、阿弥陀仏の大慈悲は、夜昼を分かたず、常に途切れず、たゆまず私を、絶対の幸福に生かして下されていることに、感泣せずにおれないのだ」
ということです。
「親鸞も源信僧都の教えによって、その身に助けて頂いたんだ」と言われているお言葉です。