矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁
原文 | 書き下し文 |
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矜哀定散与逆悪 | (定散と逆悪とを矜哀して) |
光明名号顕因縁 | (光明・名号の因縁を顕したまう) |
目次
「定散」とはどんな人?
「矜哀定散与逆悪」は
「定散と逆悪を矜哀して」
と読みます。
これは、親鸞聖人が大変尊敬されている、善導大師のお言葉です。
「定散」の
「定」は、定善の機のことです。
「機」は人のことを仏教で機といいますから、定善の人ということです。
定善というのは、
定とは心を静めるということですから、阿弥陀仏に向かって、心を静めて善を行い、浄土往生しようとしている人を、定善の人といいます。
今日は親の命日、伴侶を亡くした日、子供の亡くなった日だから、今日くらいは一心不乱に、心を乱さずおつとめしよう、と思って正信偈のおつとめを始めます。
帰命無量寿如来
南無不可思議光………
すると、一心になっているつもりだったのに、心があっち飛び、こっち飛びして、じっとしていることがありません。
心をしずめて善いことしよう、善いこと思おう、他のくだらないこと言うまい、と心がけると、そういう散乱している自分の心が見えてくるのです。
そのように、自分の心をしずめて善をしよう。
そういうことできると思っているときは、定善の機と言うのです。
ところがやってみると、とてもどうにもならない、散り乱れている自分の心が見えてきます。
そこで今度は「定散」の「散」です。
「散」とは散善の機、散善の人のことです。
散善の人とは、阿弥陀仏に向かって、心が散り乱れているままで善を行い、助かろうとしている人です。
心があっちこっち飛び回っているままで廃悪修善、悪をやめて善をやる人を散善の機といいます。
「逆悪」はどんな人?
次の「定散与逆悪」の、与えるという字は「と」と読みます。
「逆」は、五逆罪という5つの恐ろしい罪作っている人、
「悪」は、十悪の人です。
私たちは数え切れない程、悪いことばかりしているのですが、それらの悪を十にまとめて、「十悪」と教えられています。
以下の十の罪です。
(1) 貪欲……底の知れない欲で造る罪。
(2) 瞋恚……怒りの心で造る罪。
(3) 愚痴……ウラミ・ネタミ・ソネミの心で造る罪。
(4) 綺語……心にもないお世辞を言って相手を騙す言葉。
(5) 両舌……二枚舌。人間関係を裂いて、仲悪くさせることを言うこと。
(6) 悪口……中傷、わる口のこと。他人を傷つける言葉。
(7) 妄語……事実無根のウソをついて相手を苦しめること。
(8) 殺生……生き物を殺すこと。
(9) 偸盗……他人のものを盗むこと。
(10) 邪淫……よこしまな男女関係。
これを「十悪」といいます。
この「十悪」よりも、もっと重い罪が、五逆罪です。
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる、「無間業」と言われます。
「五逆罪」とは
(1) 父殺し
(2) 母殺し
(3) 羅漢殺し
(4) 和合僧を破る
(5) 仏身より血を出す
の5つです。
「父殺し」と「母殺し」は、大恩ある親を殺す罪です。
「羅漢殺し」とは、仏道修行をして相当高いさとりを開いた、羅漢といわれる人を殺す罪です。
「和合僧を破る」とは
「僧」は、仏教を正しく伝える人ですから、それらの人達の集まりを乱す行為です。
「仏身より血を出す」とは、仏様のお身体に傷をつけ、血を流させる罪です。
これらの「五逆罪」や「十悪」を造っている人を、「逆悪」と言われています。
ですから「定散と逆悪」で、すべての人がおさまります。
この中に入らない人はありません。
「定散と逆悪」と言われていますのは、
「定善の人」も「散善の人」も
「五逆の人」も「十悪の人」も、ということで、どんな人でも、ということです。
「矜哀して」とは、憐れんで、かわいそうに思われて、ということです。
善導大師は、善人も悪人も、どんな人でも、この道を進んで、後生の一大事を解決して絶対の幸福になれるんですよ、だからこの道進みなさいと教えられた人だ、と親鸞聖人はおっしゃっています。
どんな人でも救われる?
どうしてどんな人でも、救われるのでしょうか。
なぜどんな人でも、阿弥陀如来のお約束通りに絶対の幸福に救われるのか、ということについて、
「光明名号顕因縁」
光明と名号の因縁を明らかにせられた、ということです。
これが、善導大師のどんな人でも、阿弥陀仏のお約束通りにこの世で救われるんですよ、ということについての答えです。
因と縁がそろって初めて結果が現れる
どんなことでも因と縁がないと、結果は現れません。
結果には、どんなことにも、必ず因と縁があります。
因だけでも、縁だけでも結果は現れません。
因と縁がそろって初めて、結果があらわれるのです。
┌─┐ ┌─┐
│因├┬┤縁│
└─┘│└─┘
│
┌┴┐
│果│
└─┘
これが仏教の根幹である因果の道理です。
例えば米という結果の、「因」はもみだねです。
もみだねがなければ米という結果は絶対にえられません。
米を作ろうとするとき、絶対必要なのは、もみだねですから、因は大事です。
では、もみだねだけあれば米ができるのかといいますと、いくらもみだねを床の上にまいても米にはなりません。
もみだねが米になるのを助ける、土や水、日光や肥料など、色々なものが必要になります。
これらのものを仏教で「縁」といいます。
┌─┐ ┌─┐
│因├┬┤縁│
└─┘│└─┘
モ │ 水太土肥
ミ ┌┴┐ 陽 料
ダ │果│
ネ └─┘
米
もみだねという「因」と、
土や水や日光という「縁」がそろったときに、米という結果が現れます。
私たちに絶対の幸福という結果が現れるのにも、必ず「因」と「縁」があるのです。
善導大師が、阿弥陀仏のお約束通り、私たちが救われる因と縁を明らかに教えられたということが、「因縁を顕わしたまう」ということです。
定善の人も、散善の人も、逆悪の人も、どんな人でも信心決定して絶対の幸福に救われるというのは、どんな因と縁によるのか、その助かる因縁を明らかにされています。
信心の因とは?
どのように教えられているかといいますと、
「因」は名号、
「縁」は光明、
「果」は信心と
善導大師は明らかにされたのです。
名号とは「南無阿弥陀仏」の六字です。
阿弥陀仏が、私たちの後生の一大事を解決して、絶対の幸福にするためにつくられたのが、南無阿弥陀仏という六字の名号です。
それで、蓮如上人は、南無阿弥陀仏の名号の尊さ偉大さを、このように言われています。
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
(御文章五帖)
またお釈迦さまの一切経は、
この南無阿弥陀仏一つ、教えられるためであった、とも教えられています。
一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり。
(御文章五帖目9通)
「一切の聖教」とは、お釈迦さまの一代の教えが記された、一切経のことです。
それらはすべて、ただ南無阿弥陀仏の広大な宝であることを教えて、私たちに受け取らせるためだと言われています。
私たちに何とかして名号を受け取らせるために、お釈迦さまが一切経を説かれたのだ、ということです。
この南無阿弥陀仏の大功徳は、阿弥陀仏が私たちに与えて、後生の一大事を解決し、絶対の幸福にするために、十劫の昔に完成されているのです。
ではなぜ、信心決定できないのでしょうか。
南無阿弥陀仏の無上甚深の功徳利益は、十劫の昔に阿弥陀仏の手元にできているのに、なぜ私たちは、いまだに後生の一大事解決ができず、絶対の幸福、無碍の一道に出られないのかというと、その名号を受け取っていないからです。
名号を受け取らせる縁とは?
そこで、どうすれば名号を受け取らせることができるかと、阿弥陀仏が種々にご苦労されているお働きを「光明」と言われているのです。
この光明に2つあります。
「遍照の光明」と「摂取の光明」です。
「遍照の光明」とは、
「遍」とは、すべての人にかかっているということですから、すべての人をあまねく照らすということで、「遍照」と言います。
今キリスト教を信じている人も、イスラム教を信じている人も、私は無宗教だといっている人も、どんな人にでもかかっている阿弥陀仏のお力です。
「遍照の光明」をまた「調熟の光明」ともいわれます。
それは阿弥陀仏が私たちの心をととのえて、名号を受け取れる状態にしてくだされるからです。
私たちの心を畑にたとえると、石やら木の根っこやらが、たくさんあります。
そんな状態では種をおろしてもダメですから、まず畑をたがやします。
石ころをみんなとって、木の根っこもとって、そして、そこへたねをおろすことになるのです。
そのように盤根錯節した私たちの心を耕して、そこへ南無阿弥陀仏の仏種をおろそうと、私たちにかかり果ててくだされている目に見えない阿弥陀仏の働きが、「調熟の光明」です。
「調」はととのえる、荒れた土地をきれいに耕して、いつでも種をまけるような状態にする、ということです。
調熟の「熟」は、柿が熟するようなもので、青い柿でも日が当たるとだんだん色づいて、やがておいしい熟柿になります。
そのように、阿弥陀仏が私たちの心を信心決定まで、光明で照らして育ててくだされるのです。
仏とも法とも知らなかった私が、弥陀の光明に照育されて、無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、仏法を真剣に聞かずにおれなくなります。
やがて、名号と一体になるところまで、だんだん私の心を調え育てて下されるのです。
そして聞即信の一念、南無阿弥陀仏の宝を頂いたときが「摂取の光明」におさめとられたときです。
一念で摂取せられます。
それからは命ある限りずーっと「摂取の光明」に守られていくのです。
一念で絶対の幸福に救い摂るまで、阿弥陀仏が善巧方便して、私の心を熟させるために働いていてくだされるのが「調熟の光明」です。
一念で名号を与えて、絶対の幸福に救い摂ってくだされるのが「摂取の光明」です。
どちらも阿弥陀仏の光明の働きなのです。
ですから助かる因縁は?
ですから、因も阿弥陀仏のつくられた名号ですから他力です。
縁も光明、阿弥陀仏のお働きですから他力です。
因縁共に他力ですから、結果として生ずる信心もまた他力の信心となるのです。
ここには自力は一切、入りません。
だから「定善の人」も「散善の人」も、「五逆の人」も「十悪の人」も、どんな人でも、
「名号の因」と「光明の縁」によって、信心獲得させて頂けるのだ。
どんな人でも助かるんですよ、と善導大師は、光明名号の因縁を明らかにされているのです。
このように名号も光明も阿弥陀仏のお力ですから、因も縁もすべて他力、平生に絶対の幸福に救われることも、死んで弥陀の浄土へ往生させて頂くことも、みんな弥陀の独り働きなのだよ、と善導大師が教えていられることを、
親鸞聖人は、
「定散と逆悪とを矜哀して、光明名号の因縁を顕したまう」と言われているのです。