已能雖破無明闇
原文 | 書き下し文 |
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已能雖破無明闇 | (已に能く無明の闇を破すと雖も) |
目次
人生の目的を一言でいうと?
これは
「已に能く無明の闇を破すと雖も」
と読みます。
これは人生の目的を教えられた親鸞聖人のお言葉です。
人生の目的とは、
私たちは何のために生まれて来たのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくても生きねばならないのか
ということです。
人生の目的は、無明の闇を破ることだと親鸞聖人は教えられています。
無明の闇とは?
では「無明の闇」とは何でしょうか。
「無明」とは明かりがない、だから暗いということです。
「闇」も暗いということですから、
「無明の闇」とは暗い心です。
何に暗い心かといいますと、後生に暗い心です。
「後生暗い心」を無明の闇といいます。
後生暗い心の「後生」とは、
私たちは、一息切れたら後生です。
次の生へ移って行きます。
これを後生といいます。
死ねば後生なのです。
私たちは、毎日毎日生きている、ということは、死に向かって進んでいる、ということです。これは誰も否定できません。
どんなに死ぬのは嫌だと思っても、一日経てば一日経っただけ、否応なしに、私たちは死に近づいています。
それは50年も60年先のことのように思っている人ばかりですが、そうではありません。
今日もたくさんの若者が事故で死んでいます。
自分よりも若い人が死んでいきます。
ですから若いからといって、50年も60年もあとに後生があるのではありません。明日かもしれませんし、今日かもしれません。
寝たきりのお年寄りがはやく死ぬ、と決まっているわけではありません。
元気なぴんぴんしている人が死んで行きます。
後生からいうと、みんな同い年です。
いつ後生へ入って行くかは分かりません。
いつが今生最後になるか知れません。
後生は、50年や60年後の問題ではないのです。
早ければ今晩。もっと早ければ、吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
後生は吸う息吐く息にふれあう、ただ今の問題なのです。
ではいよいよ今、死なねばならないと自分の心に尋ねてみたら、どんな心が出てくるでしょうか。
暗い心が出てくるのではないでしょうか。
死んだらどうなるか、ハッキリしない心が出てきます。
今死んだらどうなるかと後生を見つめたときにハッキリしない、不安な心が出てきます。
その死んだらどうなるかハッキリしない心を後生暗い心といいます。
仏教の言葉で「無明の闇」といい、「疑情」とも言います。
この無明の闇から後生の一大事が起きるのです。
地球上、何十億人の人があっても、私たちは例外なく100%死んで行かなければならないという問題を持っています。
日本人だけの問題でもなければ、アメリカの人だけの問題でもありません。
全人類共通の問題です。
なぜ後生暗いのが問題なの?
その100%行かなければならない未来は、明るいのか、暗いのか。
これは大変な問題です。
検査を受けたところが、3日後に大手術だ。
手術してみないとハッキリしたことは言えない、生きるか死ぬかの大手術となったら、その手術の日も大変ですが、その前の日から暗くなります。
「いよいよ3日後に手術か。
祭りと結婚式と一緒にきたようなものだ」
と喜んでいる人はありません。
みんな暗くなります。
「うまく成功してくれればいいけど、大丈夫かな、ひょっとしたら……」
と心が暗くなってきます。
それは、未来に暗い手術というものがあると、その未来に向かって行く今から心が暗いのです。
明日が暗いと今が暗い心になります。
未来が暗いと今が暗くなります。
明日が明るければ今が明るくなります。
未来が明るいと今が明るくなります。
全人類は、暗い所に向かって行っているから、どんなに科学が進歩しても、経済が豊かになっても、幸福になれないのです。
なぜなら幸福になるとは、心が明るくなることだからです。
科学が進歩して、便利で豊かな生活をして、幸せだと喜んでいる人ばかりかと思ったら、幸福とは思えないばかりか、自殺者も減りません。
死んだほうがましだ、生きていれば生きているほど苦しむだけじゃないか、と子供でさえ自殺しています。
科学が進歩して、経済が豊かになって、医学が人間の命を大きく伸ばしたのに、なぜ幸福にならないのか。
それは、未来に暗い後生をもっているからです。
だから今喜べと言っても無理なのです。
100%の未来の後生が暗いのですから、今明るくなれるはずがありませんし、確実な未来の後生が明るくならない限り、現在明るく生きていけるはずがありません。
だから何がどのように進歩しようが、私たちは苦しみ悩みから解放されず、幸福になれないのです。
何のために人間に生まれたのやら、何のために生きているのやら、さっぱり分からないのです。
この無明の闇、後生暗い心がある限り、
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜がありません。
だから、こんなことなら死んだ方がましだ、という結論になるのです。
この後生暗い心、無明の闇が苦しみ悩みの元だから、これをなくすより他に、本当の幸せになる道はないんだよ、この後生暗い心を破って、「人間に生まれてよかった」という絶対崩れない、絶対の幸福になることこそが人生の目的だ、と親鸞聖人は教えられているのです。
どうすれば無明の闇が破れるの?
それが親鸞聖人の主著『教行信証』の一番最初に出ているこのお言葉です。
難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
(親鸞聖人『教行信証』)
無明の闇が苦しみ悩みの根元ですから、無明の闇を破する。
「破する」とは、なくすということです。
私たちの苦しみの根元である無明の闇を破ってなくす。
それは無碍の光明によってのみできるので、「無碍の光明は」と言われているのです。
「無碍の光明」とは、阿弥陀仏のお力ということです。
「慧日」とは智慧の太陽ということです。
「天に二日なし」と言われるように、太陽は2つも3つもありません。
阿弥陀仏のお力しか、苦しみ悩みの根元をぶち破る力はないのだから、はやくこの苦しみ悩みの根元である無明の闇を破ってもらいなさい、というのが、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
ということです。
阿弥陀仏のお力によって、一念で無明の闇を照破して頂きますから、
阿弥陀仏の本願は、苦しみ悩みの難度海の人生を明るく楽しく渡す大きな船のようなものだ、と親鸞聖人は教えられています。
無明の闇はいつ破れるの?
親鸞聖人が正信偈に
「已に能く無明の闇を破すと雖も」
と言われていますのは、
「親鸞はすでに無明の闇が破れた」
ということです。
「已に」とは、もうすでに、
「能く」とは、阿弥陀仏のお力によって
「雖も」とは、けれども、ということですから、
「已に能く無明の闇を破すと雖も」とは、
すでに阿弥陀仏のお力によって無明の闇が破られたけれども。
人生の目的は、無明の闇を破っていただくことですから、人生の目的果たしたら、どうなったか、ということです。
「すでに」ですから、
人生の目的は、生きているときに完成するということです。
無明の闇は一念で破れます。
一念とは、何億分の一秒よりも短い時間のきわまりです。
一念で、無明の闇が破られて、後生暗い心が「後生明るい心」になります。
何があっても崩れない「絶対の幸福」になれるということです。
一念で、人間に生まれてよかったという生命の歓喜が起きますから、この一念が、人生の目的が完成したときです。
人生の目的は、一念で完成するのです。
親鸞聖人は、すでに無明の闇が破れた、とおっしゃっていますから、生きているときに、絶対の幸福に助かったということです。
この無明の闇は、阿弥陀仏のお力でなければ照破することはできませんので、
はやくこの苦しみ悩みの根元である無明の闇を阿弥陀仏に破ってもらいなさい、
と親鸞聖人は教えられています。