不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
原文 | 書き下し文 |
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不断難思無称光 | (不断・難思・無称光) |
超日月光照塵刹 | (超日月光を放ちて塵刹を照らす) |
一切群生蒙光照 | (一切の群生、光照を蒙る) |
目次
(9)不断光
「不断光(ふだんこう)」とは、
「断」は切れるということですから、途切れることのないお力ということです。
阿弥陀仏の光明は、常に照らしてくだされる、常に私にかかってくだされている、ということです。
ですから、阿弥陀仏に救われたならば、
親鸞聖人は
憶念の心常にして
仏恩報ずるおもいあり (親鸞聖人)
とおっしゃっています。
「憶」とは時々おもう、
「念」とは途切れることなく思う、ということです。
「明記不忘(みょうきふもう)」と言って、明らかに手帳に記したように、忘れるということがないという思いが「念」です。
「憶念の心常にして仏恩報ずる思いあり」
ですから、阿弥陀仏のご恩どう返したらいいか、という心が絶えないということです。
このような心になるのは、阿弥陀仏に「不断光」の働きがあるからです。
途切れることのない不断光の働きがなかったら、私たちが憶念の心となって、夜昼寝ても覚めても仏恩報ずるおもいが絶えない、ということになりません。
そのもとは、この「不断光」にあるわけです。
(10)難思光
「難思光(なんしこう)」とは、想像もできないお力ということです。
親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた世界を、
不可思議・不可称・不可説の信楽
とおっしゃっています。
「不可思議」とは、
思議できない、想像もできない、ということで、心が絶えてしまった、ということです。
「不可称」とは、言うことができない、言葉が絶えてしまった、ということです。
「不可説」も、言葉が絶えてしまいましたから、説くことができないということです。
ですから「不可思議・不可称・不可説」とは、
想像すらできない、ただただ驚くばかり、あきれるばかり。
心も言葉も絶えてしまった、ということです。
阿弥陀仏の偉大なお力は、私たちの想像できるようなものではない。
心も言葉もたえはてて、ああ、というほかない。
そういう想像もできない働きが「難思光」です。
(11)無称光
「無称光(むしょうこう)」とは、言うことができないお力のことです。
阿弥陀仏に救われた絶対の幸福は、不完全な言葉では、言い表すことのできない、言葉を離れた世界です。
言葉では語れない世界なのですが、言葉でなければ伝えることはできませんので、親鸞聖人は、何とか伝えることはできないものかと言葉を尽くして教えられているのです。
そして最後に親鸞聖人は、心も言葉も絶え果てて
「不可思議・不可称・不可説の信楽だなあ」
と仰せなのです。
(12)超日月光
「超日月光(ちょうにちがっこう)」とは、日月を超えた光、ということです。
この世で最高に明るいのが太陽です。
その、この世で最高の光をはるかに超えるのが、阿弥陀仏のお力だ、ということです。
東條英機は、刑務所に入れられてから、浄土真宗の教誨師から仏教を聞き、死の直前に
「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に弥陀の光かがやく」
とうたっています。
この世で最も明るい日光も、月光も、阿弥陀仏の光明は、はるかに超越している、ということです。
すべての人が救われる
このように阿弥陀仏には十二通りの大変な働きがあり、その十二の広大な光で「塵刹を照らす」と言われています。
「塵刹」とはちりのような世界ということで、大宇宙に数え切れないほどある地球のような世界のことです。
ですから、阿弥陀仏の光明は、普く大宇宙のすべての世界を照らしてくだされている、ということです。
次の「一切の群生、光照を蒙る」とは、
だから大宇宙のすべての生きとし生けるもの、すべての人は、阿弥陀仏のお力を受けている。
阿弥陀仏に救われるところへ向かって、じりじりと引っ張られているのだ、ということです。
「だから親鸞も、その阿弥陀仏のお力によって
救われたんだ、助けられたんだ」
「親鸞が絶対の幸福になれたのは、
阿弥陀仏にこういう偉大なお力が
あったからなのだ」
「このような十二通りのすばらしいお力を
持っておられたなればこそ、
諸仏が助けることができなかった親鸞を
阿弥陀仏のみが助けたもうたのだ」
「だからあなたも、必ず親鸞と同じように、
生きているときに、人生の目的を果たして、
人間に生まれてよかったという
喜びの身になれるのですよ」
とおっしゃっているお言葉です。