凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
原文 | 書き下し文 |
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凡聖逆謗斉廻入 | (凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば) |
如衆水入海一味 | (衆水の海に入りて一味なるが如し) |
目次
無碍の一道へ出たらどうなるの?
これは、
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如し」
と読みます。
阿弥陀仏に救われて、無碍の一道へ出たらどうなるかを教えられた親鸞聖人のお言葉です。
凡聖逆謗とは
まず「凡聖逆謗」の
「凡」とは凡夫、
「聖」とは聖人、
「逆」とは五逆罪の悪人、
「謗」とは謗法罪を造っている極悪人
ということです。
「凡夫」とは人間のことです。
「聖人」というのは、親鸞聖人の聖人ではありません。
凡夫に対して、ある程度さとりをえて、凡夫のようなあらっぽい煩悩を出さないようにつとめている人、自分の心を相当コントロールできる人を、ここで「聖」といわれています。
「五逆罪」とは、大恩ある親を殺したりする5つの恐ろしい罪を言います。
その五逆罪を造っている人を、ここで「逆」と言われています。
「謗法罪」とは、
この「法」は仏法のことで、仏法を謗ったり、非難することをいいます。
仏法は、すべての人が救われる教えですから、
聖徳太子は『十七条憲法』に
四生の終帰 万国の極宗 (聖徳太子『十七条憲法』)
といわれています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて、
「終帰」とは最後、帰依するところ、
という意味ですから、仏教は、生きとし生けるものの救われる、唯一絶対の教えであるということです。
古今東西の全人類が救われる、たった一本の道が仏教ですから、「万国の極宗」ともいわれています。
そんな仏教を謗り非難することは、全人類が救われるたった一本の道をぶち壊すことですから、こんな恐ろしいことはありません。
それは、何十億、何百億、幾億兆の人を地獄へ突き落とすことになりますから、親を殺す以上に、最も恐ろしい罪なのです。
その謗法罪を造っている人を、ここで「謗」と言われています。
このように「凡聖逆謗」で、凡夫か聖人か、五逆罪を造っている悪人か、謗法罪を造っている極悪人かですが、この中に入らない人はありませんから、「凡聖逆謗」とは、すべての人ということです。
それらの人が……
次に、すべての人が「斉しく廻入すれば」とは、
「斉しく」とは、同じようにということです。
凡聖逆謗、どんな人でも同じようにです。
「廻入」とは「えにゅう」と読みます。「廻心帰入」の略です。
「廻心」とは、心が回ると書くように、心がガラーッと変わってしまうことです。180度心が変わります。
「帰入」とは、阿弥陀仏の本願を海にたとえて、本願の海に入ったことをいいます。
ですから「廻入すれば」とは、阿弥陀仏に救われたならば、ということです。
では、どんな人でも同じように、阿弥陀仏に救われて、無碍の一道へ出たらどうなるのでしょうか。
無碍の一道へ出たら
次に
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
と教えられています。
「衆水」とは色々の水ということで、色々な川の水のことです。いわゆる万川です。
大きな川もあれば小さい川もあります。
太い川、細い川、にごった川、色々あります。
「衆水の海に入りて」とは、それらは最後、必ず海に流れ込みます。
万川が海に流れ込みますから、数え切れないほど沢山の川が、海に流れ込んでいます。
海に流れ込むと、それらの川の水は、
「一味なるがごとし」
味が一つになってしまいます。まったく同じ、塩辛い味です。
一つの味になるということは?
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
どんな人でも、無碍の一道へ出れば、一味になる。
一つになる。
凡夫も聖人も五逆の人も謗法の人も、どんな人でもみんな一つの味になる、同じ喜びの心になる。
ですからこれは、
800年前の親鸞聖人も、
500年前の蓮如上人も、
現代の私たちも、
今から100年後、200年後、1000年後の人でも同じです。
また、日本でもアメリカでもインドでも、地球上どこの人であろうが、みな同じ味になります。
時をこえ、所をこえて、みんなこの聴聞の一本道を進んで無碍の一道へ出ると、同じ喜びの心になる。
阿弥陀仏に救われた人は、まったく同じ無碍の一道へ出る。
まったく違いのない絶対の幸福になるんだ。
老いも若きも、頭のいい人も悪い人も、一切の人が差別なく、一味平等になる世界が無碍の一道だと教えられています。
人生の目的は人それぞれ?
このように人生の目的は、人それぞれのものではなく、万人共通唯一の世界なのです。
人それぞれのものは、趣味とか生きがいで、人生の目的ではありません。
趣味や生きがいは、その人その人によって異なります。
みんな違ってみんないいのです。
ところが人生の目的は、どれだけ多くの人があっても、共通してただ一つです。
そのただ一つの目的は、無碍の一道へ出ることです。
無碍の一道という万人共通唯一の世界に出て、人間に生まれてよかったという絶対の幸福になることが、人生の目的だと親鸞聖人は教えられています。
これ一つ果たすために、どんなに苦しくても生き抜かなければならないのです。
このように親鸞聖人は、
人生の目的は万人共通唯一のものだという
真実を明らかにされるために
正信偈で朝晩、
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如し」
と教えられているのです。