万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
原文 | 書き下し文 |
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万善自力貶勤修 | (万善の自力、勤修を貶し) |
円満徳号勧専称 | (円満の徳号、専称を勧む) |
目次
私たちは善をする必要がないの?
「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」は、
「万善の自力、勤修を貶(へん)し、
円満の徳号、専称を勧む」
と読みます。
親鸞聖人が七高僧の4番目にあげておられる、道綽禅師のお言葉です。
「道綽禅師のお導きによって、親鸞、弥陀に救われたのだ」と、道綽禅師を大変尊敬され、褒め称えておられるところです。
ところがここは安易に読むと、道綽禅師が「善をけなされ、念仏を勧められた」と誤解しやすい危険なところです。そう思ってしまうと、道綽禅師がけなされたということは、私たちの善は何のあたいもないのだ、善をする必要はないのだと思ったり、念仏さえ称えればいいんだと思ってしまいます。
親鸞聖人は、本当にそんなことを教えておられるのでしょうか?
道綽禅師の教えられていることとは?
道綽禅師は、前の2行の、
「道綽は聖道の証し難きことを決し、
唯浄土の通入す可きことを明す」
のところでお話ししましたように、
お釈迦様の説かれた仏教に、
「聖道仏教」と「浄土仏教」の
2つあることを教えられた方です。
聖道仏教とは、自分のやった善根で助かろうとする教えです。
浄土仏教とは、無上仏である阿弥陀仏のお力によって救われる教えです。
道綽禅師は、
「聖道仏教では助からないから捨てよ、浄土仏教を信じなさい」とハッキリと教えられた方です。
それが、「万善の自力、勤修を貶し」ということです。
「万善の自力」とは、私たちのやるすべての善のこと。
「勤修」とは、励む、実行する、ということです。
「貶し」とは「けなされた」ということですから、
「人間のやる善では助からない」という意味です。
人間のやる善で助かろうとする聖道仏教を、「それでは助からないから捨てよ」と教えられているお言葉です。
ではそれは、「私たちのやる善をけなされているのだから、善をやる必要はない、善を勧めるのも間違いだ」ということなのでしょうか。
仏教では善を勧めていいの?
これは決して「善をするな」とか「善いことをする必要はない」ということではありません。
仏教の根幹は、因果の道理です。
善因善果
悪因悪果
自因自果
これは大宇宙の真理ですから、
善い種をまかなければ、善い結果はあらわれませんし、
悪い種をまけば必ず、悪い結果が引き起こります。
この因果の道理で貫かれているのが、釈迦の説かれた仏教ですから、
仏教の根幹は、
「悪いことをやめて善をせよ」という「廃悪修善」の教えになるのは当然なことです。
では、そんな仏教を教えられた道綽禅師が、なぜ「善をけなされている」のでしょうか。
誤解が起きるポイント
これは「私のやっている善では、人生究極の目的である浄土往生はできませんよ」ということです。
『阿弥陀経』というお経にお釈迦様は、それを、
少善根福徳の因縁を以ては、
彼の国に生まるることを得べからず。(『阿弥陀経』)
と説かれています。
「少善根」とは、人間のやる善のことです。
私たちのやる善を、お釈迦様が、「小さな善根」と言われるのは、人間のやる善では「彼の国に生まれることができないからだ」ということです。
「彼の国」とは、無上仏である阿弥陀仏の極楽浄土のことですから、
「我々の励む善では弥陀の浄土へは往けないよ」ということです。
このことは、親鸞聖人も『教行信証』に、
急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名け、また「虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。(親鸞聖人『教行信証』信巻)
と断言されています。
「急作・急修」とは一生懸命、必死に、
「頭燃を灸う」とは、頭についた火をもみ消すような真剣さで、
「雑毒雑修の善」とは、見返りを期待する心や自惚れ心などの毒に汚染されている善ということです。
「虚仮諂偽の行」とはウソ偽りの善、
「真実の業」とはまことの善、
「無量光明土」とは弥陀の浄土のことですから、
これは、
「親鸞、頭についた火をもみ消す真剣さで善いことをやったけれども、まことの善はできなかった。
人間のやる善では、弥陀の浄土へ生まれることは、絶対にできないのだ」
ということです。
では人間のやる善を、何に対して「小さな善根」と、けなされたのでしょうか。
私たちが浄土往生するには、本師本仏の阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」の万善万行の御名号のお力によるしかない、とお釈迦様は教えておられます。
その「南無阿弥陀仏」の大善根に対して、私たちのやる善を「少善根」と言われているのです。
ですから、我々のやる善をけなされたのは、あくまで、往生の一段についてのことであって、生活面のことではないのです。
ここは決して聞き誤ってはならない、極めて重要なところです。
往生の間に合わない我々の善を、なぜ釈迦は一切経で勧められているのか。
本師本仏の阿弥陀仏が、十九願で「修諸功徳」と勧められているからです。
その十九願の弥陀の御心を、お弟子のお釈迦様が、一切経に「廃悪修善」と勧められているのです。
光に向かって進まなければならないのは当然のことです。
※このことは『なぜ生きる2』(高森顕徹先生・著)に詳説されています。
あくまでも、「弥陀の浄土へ往く」という
「往生の一段」においては、「我々のやる善では助からない」と言われているのです。
「善をするな」ということでは、絶対にないことを、よくよく知らなければなりません。
では、私たちが弥陀の浄土へ往生するには、ただ念仏さえ称えていればいいのでしょうか?
では念仏さえ称えていればいいの?
次の「円満徳号勧専称」は、
「円満の徳号、専称を勧む」
と読みます。
「円満の徳号」とは、名号のことです。
「円満」とは完全無欠で欠け目のないこと、
「徳」とは功徳のことです。
南無阿弥陀仏の六字の名号には、大宇宙の功徳のすべてが完全におさまっていますので、「円満の徳号」と言われています。
「専」とは、もっぱらということですが、他のことは何もしない、という意味ではありません。
他力ということです。
ですからこれは、掃除も洗濯もせずに、ただ念仏さえ称えていればいい、ということではありません。
道綽禅師が勧めておられるのは、他力の念仏です。
他力と自力の違いについては、正信偈の次の「三不三信の誨え」で、「三不信(自力)」と「三信(他力)」の水際を、「慇懃に」、丁寧に、詳しく教えられていますが、
阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いて、絶対の幸福の身に救われると、救われた喜びから称えずにおれない、ご恩報謝のお礼の念仏が、他力の念仏です。
このように、私たちが弥陀の浄土へ往生するには、大善である「南無阿弥陀仏」の弥陀の名号を頂かなければ、絶対できませんから、早く「南無阿弥陀仏」を頂きなさいよと、道綽禅師が勧めておられることを
親鸞聖人は、「万善の自力、勤修を貶し、円満の徳号、専称を勧む」と教えられているのです。