能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
原文 | 書き下し文 |
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能発一念喜愛心 | (能く一念喜愛の心を発せば) |
不断煩悩得涅槃 | (煩悩を断ぜずして涅槃を得) |
目次
私たちが仏教を聞く目的は?
これは
「能く一念喜愛の心を発せば
煩悩を断ぜずして涅槃を得」
と読みます。
阿弥陀仏に救われたら、どこがどう変わるのかを教えられています。
まず、「能発一念喜愛心」の「能」とは、親鸞聖人は阿弥陀仏のお力、他力のことを能といわれています。
ですから「能発」とは、阿弥陀仏のお力によっておこされるということです。
「一念」とは、親鸞聖人は『教行信証信巻』に、「時剋の極促」といわれています。
「時刻の極促」とは、これ以上はやい時間はない、時間の極まりを言います。
一念といふは、信心を得る時のきわまりをあらわす語なり。
とも、『一念多念証文』におっしゃっています。
「喜愛心」とは、弥陀の本願に疑い晴れた、喜びの心です。
親鸞聖人は『歎異抄』に
念仏者は無碍の一道なり
と言われています。
「無碍の一道」とは、一切が浄土往生のさわりにならない世界のことです。
阿弥陀仏に救われた者は、一切が往生の障りにならない絶対の幸福者である、ということです。
「阿弥陀仏の力によって、一念で喜愛の心がおきれば」と親鸞聖人が言われているのは、私たちが、仏法を聞いている目的地は、この無碍の一道に出ることだということです。
これは、人生の目的です。
人生の目的とは?
人生の目的とは、何でしょう。
政治も経済も科学も医学も法律も芸術も、私たちが生きるためにあるもの、いわば生きる手段ですが、何のために生きるのか、生きる目的は何なのか、ということが、最も大事なことです。
生きることを歩くことにたとえると、ただ歩きさえすればいいのではありません。走りさえすればいいのではありません。
歩いたり走ったりするのは、どこかへ行くためでしょう。
飛行機は、飛ぶために飛んでいるのではありません。目的地に向かって飛んでいるのです。
同じように、私たちは、生きるために生きるのではありません。
生きる目的は何なのか、私たちは、生きてどこへ行くのか、が最も肝心です。
医学は、一分間でも命を延ばそうとしますが、伸ばした命で何をするのかが、一番大事なのです。
命が延びたために、よけい苦しむというのでは、命を延ばした意味がなくなりますから、延ばした命で何をするのか、私たちは生きて何をするか、何のために生きるのか、というのが人生の目的です。
生きるということは、大変なことです。
これは毎日身につまされていることですが、こんなに苦しいのなら死んだ方がましだと自殺する人もあります。
苦しくても自殺してはいけないのは、何のためなのでしょうか。
政治、経済、科学も医学も、法律も文学も、より快適に、より長く生きるためにあるのですから、それらを生かすも殺すも、この目的知るかどうか、人生の目的を果たすか否かで決する、といっても過言ではありません。
その私たちにとって最も大切な人生の目的は、
「無碍の一道へ出ることだ」と断言なされたのが、実に親鸞聖人なのです。
「無碍の一道」とは、一切がさわりにならない絶対自由な世界です。
すべての人が生まれて来た目的は、無碍の一道へ出て、人間に生まれて来たのはこれ一つだった、よくぞ人間に生まれたものぞという生命の歓喜をうることだ。
すべての人が苦しくても生きねばならないのは、この人生の目的を果たすためである、と教導されているのです。
その無碍の一道へ私たちはいつ出られるのか、どうしたら出られるのかというと、阿弥陀仏のお力によって一念で出られるといわれているのがこのお言葉です。
一念とは、これ以上はやい時間のない、極まりを言うのですから、生きている現在、ただ今の一念に、無碍の一道へ出られる。阿弥陀仏のお力によって、一念で喜愛心がおきる。
人生の目的果たすことができるのだ、という大変なことを教えられた1行です。
無碍の一道へ出たらどうなるの?
では、この無碍の一道へ出ると、私たちはどこが変わるのか、どこが変わらないのか、次に「不断煩悩得涅槃」と教えられています。
「不断煩悩」とは、煩悩を断ぜずして、ということです。
「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませ、苦しめるものを言います。
108つありますので、108の煩悩といわれます。
除夜の鐘を108つつくのは、煩悩の数から出ています。
「ああ今年は大変だったな」
「新しい年は今度は幸せになるように」
「煩わしいこと悩ましいこと起きませんように」
と、108つ鐘をついて迎えることになっているのですが、年が明けても、煩悩は相も変わらずです。
その108の中でも、特に私たちを煩わせ悩ませるものに3つあります。
・貪欲……無ければ欲しい、有ればもっと欲しいと、際限なく求める欲の心。
・瞋恚……欲が妨げられると、カッと腹が立つ怒りの心。
・愚痴……因果の道理が分からぬところから起きるうらみ・ねたみの心。
この欲と怒りと愚痴が、私たちを一番煩わせ悩ませるものですから、特に三つの猛毒を含んだ煩悩ということで、「三毒の煩悩」といわれています。
その最初にあげられる、
「貪欲」を大きく5つに分けた時は、
「五欲」といいます。
○食欲……食べたい、飲みたい欲。
○財欲……金や物が欲しい欲。
○色欲……異性を求める欲。
○名誉欲…褒められたい、認められたい、悪口言われたくない欲。
○睡眠欲…眠たい、楽がしたい欲。
無ければないで欲しい欲しい、有っても有っても、もっともっと欲しいと、私たちは毎日、五欲にひきずられて煩わされて苦しんでいます。
その欲が邪魔されますと、かっとなって腹が立ちます。
自分の思ったようにならないと怒りが噴き上がります。
ねたみそねみの心で、隣に自分の家より大きな家がたつと面白くない。
嫉妬心でねたんだり、恨んだりしています。
このように、私たちを煩わせ悩ませる煩悩を私たちは108つも持っています。
このように言いますと、私たちは、煩悩以外に何かあるように思いますが、実は私たちは、煩悩以外にありません。
親鸞聖人は、私たち人間を
「煩悩具足の凡夫」と言われています。
「凡夫」とは仏教の言葉で人間のことです。煩悩具足の人間だということです。
他にも
「煩悩成就の凡夫」とも
「煩悩熾盛の衆生」とも言われます。
「煩悩具足」とは、煩悩の塊ということですから、人間というものは煩悩に目鼻つけたようなものだ、ということです。
「煩悩成就」は煩悩でできあがっている、ということです。
雪だるまは、雪によってできあがっています。雪が消えれば雪だるまはなくなってしまいます。
同じように、私が煩悩によってできているということは、煩悩がなくなったら私は無になってしまう、これが「煩悩成就の凡夫」ということです。
「煩悩熾盛の衆生」とは、
「衆生」とは人間のことで、煩悩が盛んに燃えているのが人間だということです。
煩悩のほかに人間はない。煩悩がなくなったら私というものはなくなってしまうのだと言われているお言葉です。
そのような、常に私たちを煩わせ悩ませるものでできているのが人間ですから、お釈迦さまが「人生は苦なり」と言われているように、生きることが、大変苦しいことになってくるのです。
徳川家康は
人の一生は 重荷を背負って 遠き道を行くがごとし
死ぬまで重荷を背負って生きねばならない、と言っています。
結局人間は苦しみ悩みの連続であり、それは死ぬまで続く、それが人の一生であるということです。
それは、私が煩悩でできているからなのです。
煩悩は救われたらどうなるの?
では、阿弥陀仏のお力によって、一念喜愛の心がおきれば、その煩悩はどうなるのでしょうか。
「煩悩を断ぜずして」と教えられていますから、煩悩を断ち切らないで、ということです。煩悩はなくならない、そのままで、ということです。
阿弥陀仏に救われて、一念で、無碍の一道へ出させて頂いたならば、
「欲は少なくなるんだろうな」とか、
「腹が立たないようになるのだろう」とか、
「隣にどんな立派な豪邸が建っても、そこから頂いた赤飯をおいしく頂けるのだろう」とか、煩悩が少なくなる、ひょっとしたらなくなるのではないかと思っている人がありますが、それはまったく間違いです。
煩悩は、まったく変わりません。
阿弥陀仏に救われても、「煩悩を断ぜずして」ですから、煩悩はそのままですよ、煩悩は変わらないのですよ、ということです。
欲とか怒りとかねたみそねみは、無碍の一道へ出ても、なくもならないし、減りもしないということです。
煩悩が「なくなる」と思っている人は、それほどいないかもしれませんが、ほとんどの人は「少なくなるのだろう」と思っているのではないでしょうか。
無碍の一道へ出る前は、欲の心が100あった貪欲な人が、90になったとか80になったとか、少しは無欲になるのだろう。
1日100回腹を立てていた怒りっぽい人が、50回に半減したとか、少しは温厚になるのだろうと思いますが、そうはならないということです。
無碍の一道へ出るということは、煩悩がなくなるとか、少なくなるということとは、まったく違います。
浄土往生のさわりにならなくなる、ということです。
煩悩がいくらあってもさわりにならなければ、無碍の一道は、絶対の幸福の世界なのです。それがすべての人が、生きている究極の目的です。
もし煩悩がなくなったら?
もしこの世界に出て煩悩がなくなると、私は煩悩でできているのですから、私がなくなるということです。結局、生きてはいられません。
欲がなくなった人間は、
食欲がなくなるので、一切食べる気がない。
財欲がないから、儲けようという気も、働く気もない。
名誉欲もなくなりますから、人からよく思われたいとも思わない。
睡眠欲もなくなるから、寝ることもなくなってしまう。
無碍の一道へ出たら、だんだんやせ細って、栄養失調で死んでしまいます。
お金も物も欲しくなくなって、無気力になります。
だんだん働く意欲も減退して、貧乏になります。
名誉欲も減退するので、人前でも恥知らずなことばかりするようになります。
もしそんなことになるのなら、あの親鸞聖人のたくましい人生は、ありえません。
今日「世界の光」といわれる親鸞聖人は、四方八方から非難攻撃を受けられながら、強く、たくましい生き方を貫かれています。
もし煩悩がなくなったり少なくなったりすると、へなへなな生き方になっていきますので、あのような力強い生き方は、出ようがないのです。
煩悩はそのままで無碍の世界へ出られたからこそ、あの波瀾万丈の人生をたくましく生き抜かれたのです。
では何も変わらないの?
ところが煩悩が変わらないだけなら、一念喜愛の心がおきていない人も、おきた人も同じ、ということになってしまいます。
そんなはずはない。
では一体どこが変わるのでしょうか。
その次に「得涅槃」、涅槃をうるとあります。
「涅槃」とは阿弥陀仏の極楽浄土です。
「涅槃をうる」というのは、いつ死んでも極楽浄土へ往ける身になるということです。
私たちの姿を飛行機にたとえますと、生まれたときが飛行場を飛び立ったときです。
それぞれ飛び立ってから今日まで、色々なことがあったと思いますが、今生きているということは、今も飛行中ということです。
ところが飛び立った飛行機は、必ず降りるときがきます。いつまでも飛んではいられません。
やがて、ガソリンが切れて、降りなければなりません。
政治や経済や科学や医学、法律とか、人間の営みのすべては、いかに遠くまで飛ぶか、快適に飛ぶか、という飛び方を問題にするものです。
乱気流に入ったらどうするか、台風に出会ったときはどうするか、飛ぶときには、色々対策がいります。
低空で飛べばいいか、成層圏、高いところを飛べば長く飛べるか、背面飛行すればいいときもあるだろうし、飛び方にも色々あります。
これらの飛び方は大事なことですが、飛行機にとって、いちばん大事なのは、やがて燃料が切れたらどこへ降りるか、どこへ向かって飛べばいいかという方角です。
燃料が切れたとき、降りようと思ったら太平洋のど真ん中、見渡す限り下は海また海で、着陸地がないとなったら墜落あるのみです。
好きな人と結婚できた、子供ができた、車を買った、家を建てた、と言っているのは、飛行機の中でのことで、機内食を食べて、機内販売を買って、浮かれ騒いでいるようなものです。
その飛行機全体が、やがて燃料が切れたら墜落しなければならないとなれば、決して楽しい空の旅にはなりません。
どうしても心から満足できない、不安な空の旅になります。
それがいつ燃料が切れても、安全に誘導されて着陸できる場所がハッキリすれば、とても楽しい満足した明るい空の旅ができるのです。
これがハッキリしていないから、みんな不安で苦しみ悩んでいるのです。
科学が進歩して、物も非常に豊かになって、みんな幸せだと思っているでしょうか。人生の苦しみは少しも変わりません。
政治でも経済でも、科学、医学でも、うめることができない深い不安が人間の腹底にあるからです。
それは降りるところがない飛行機の不安と同じなのです。
それが「能発一念喜愛心」
阿弥陀仏の力によって、一念喜愛の心がおきれば、煩悩変わらないままで、「いつ死んでも極楽参り間違いない」という得涅槃の身になれるのだと親鸞聖人はおっしゃっています。
ですから、一念、喜愛の心が起きるまでの人と、起きてからの人と、煩悩は変わらないのですが、一念喜愛の心が起きない人は、燃料が切れたらみんな海へ墜落します。
一念喜愛の心が起きた人は、いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリしている。ここが違うのだ、だからはやく喜愛の心が起きる一念まで進みなさい、と親鸞聖人が教えられているのが、この2行です。
それで親鸞聖人は、この一念喜愛の心が起きる所まで進むのが人間に生まれてきた目的なのだ。無碍の一道へ出ることが人生究極の目的なのだ、と教えられているのです。