帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
原文 | 書き下し文 |
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帰入功徳大宝海 | (功徳の大宝海に帰入すれば) |
必獲入大会衆数 | (必ず大会衆の数に入ることを獲) |
得至蓮華蔵世界 | (蓮華蔵世界に至ることを得れば) |
即証真如法性身 | (即ち真如法性の身を証せしむ) |
目次
帰入功徳大宝海
必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界
即証真如法性身
帰入功徳大宝海
これは「功徳の大宝海に帰入すれば」と読みます。
「功徳の大宝海」とは、南無阿弥陀仏の六字の「名号」のことです。
名号を阿弥陀仏から「頂く」ことを、仏教で「帰入(きにゅう)」と言います。
私たちが名号の六字を頂くと聞きますと、ちょうど南無阿弥陀仏というぼたもちを頂いて食べるように思います。
ところが本当は、私たちがぼたもちになって食べられるようなものです。
一升ビンに太平洋の水を入れようとしても、毛頭できるはずがありません。
これを自力といいます。
功徳の大宝海に帰入ですから、一升びんを太平洋に入れるということです。
すると一升びんも海の水で一杯になって、太平洋と一つになってしまいます。
これが帰入です。
自力と他力は全く違います。
功徳に満ちた大海なんだ。
そこへ飛び込むんだ。
そして一体になります。
ではそのように、阿弥陀仏から名号を頂いたならば、どうなるのでしょうか?
必獲入大会衆数
これは「必ず大会衆の数に入ることを獲」と読みます。
「大会衆」とは、正定聚(しょうじょうじゅ)のことです。
「正定聚」とは、「聚」は人たちということですから、「正」しく、仏になるに「定」まった人たちを「正定聚」といいます。
あと一段で仏というすばらしい世界に生かされるということです。
しかも「必ず獲る」ですから、獲る人と獲ない人がいるのではありません。
功徳の大宝海に帰入した人は、必ずです。
さらに「獲る」というのは、「この世で」獲ることを言います。
それに対して「死んでから」うるものは、親鸞聖人は次の「得」という漢字であらわされています。
では、「この世で」大会衆の数に入ることを獲た人は、どうなるのでしょうか?
得至蓮華蔵世界
これは「蓮華蔵世界に至ることを得る」と読みます。
「獲」は、「この世でうる」ということでしたが、
「得」は、「死後でうる」ということです。
では、死後で何を得るのかといいますと、「蓮華蔵世界に至ることを得る」とおっしゃっています。
「蓮華蔵世界」とは、「阿弥陀仏の極楽浄土」のことです。
この世で大会衆の数に入った人は、死ぬと同時に、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くことができるのだよ、と教えられています。
では、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、どうなるのでしょうか?
即証真如法性身
これは「即ち真如法性の身を証せしむ」と読みます。
「即ち」といいますのは「ただちに」ということです。
「真如法性の身」とは、「阿弥陀仏と同じ仏の身」ということです。
「即ち真如法性の身を証せしむ」とは、死ぬと同時に阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、ただちに阿弥陀仏と同じ仏の身に生まれさせて頂けることをいいます。
このように親鸞聖人の教えは
「この世」で獲るものと、
「死後」で得るものと
2つ教えられています。
阿弥陀仏に救い摂られた人は、
「大会衆の数に入ること」を獲て
「蓮華蔵世界に至ることを得て、即ち真如法性の身を証せしむ」と、2つの救いが教えられています。
しかも、「この世で」大会衆の数に入った人だけが、「死後」蓮華蔵世界に至ることをえますので、親鸞聖人は、
「この世で大会衆の数に入ること、功徳の大宝海に帰入することを急げよ」と教えてゆかれました。