一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華
原文 | 書き下し文 |
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一切善悪凡夫人 | (一切善悪の凡夫人) |
聞信如来弘誓願 | (如来の弘誓願を聞信すれば) |
仏言広大勝解者 | (仏は広大勝解の者と言い) |
是人名分陀利華 | (是の人を分陀利華と名く) |
目次
これは誰のこと?
これは、
「一切善悪の凡夫人、
如来の弘誓願を聞信すれば、
仏は広大勝解の者と言い、
是の人を分陀利華と名く」
と読みます。
「一切善悪の凡夫人」の
「一切」はすべて、ということです。
「凡夫」とは、仏教で人間のことですから、
「善悪の凡夫人」とは、善悪の人間ということです。
善人も悪人も、すべての人のことを
「一切善悪の凡夫人」と親鸞聖人はおっしゃっています。
ですから僧侶も在家の人も、男も女も、一切の人、この中に入らない人はありません。
すべての人が「如来の弘誓願を聞信すれば」と言われています。
如来の弘誓願とは?
「如来の弘誓願」の「如来」とは、仏様のことです。
次に「弘誓願」とありますから、
「如来の弘誓願」は、釈迦如来や薬師如来、大日如来などではなく、「阿弥陀如来の本願」です。
では「弘誓」とはどういうことかといいますと、ひろい誓いということです。
蓮如上人は、
それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしく皆十方・三世の諸仏の悲願にもれて、捨てはてられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して(蓮如上人『御文章』)
といわれています。
「十方・三世の諸仏」とは大宇宙のすべての仏さまです。
その「悲願にもれた」ということは、大宇宙のすべての仏が、みな慈悲の心を持っておられますから、一度は、なんとか私たちを助けようとしてくだされたが、助けられずに、私たちを捨てたということです。
私たちは、薬師如来や大日如来や奈良の大仏の毘盧遮那如来などから、かわいそうだけれども、とても助けることができない、と捨てられたということです。
すべての人は、大宇宙の諸仏から見放されたのですが、そんな私たちを、諸仏に捨てられた者たちなら、なおのこと見捨てておけないと立ち上がってくださり、「我一人助けん」と約束せられたのが、本師本仏の阿弥陀仏の本願です。
その救済の相手は、「大宇宙のすべての人」ですから、大変ひろい誓いです。
だから親鸞聖人は、「弘誓願」といわれているのです。
聞信とは?
その阿弥陀仏の本願を聞信すればの
「聞信」とは、聞即信のことです。
「聞即信」の「信」は信心獲得の信、「即」はその時ですから、聞いたその時、信心獲得します。
ですから聞く一つで、絶対の幸福に救われるのです。
では聞くとはどんなことかといいますと、親鸞聖人は、こう教えられています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「聞」と曰うなり。(親鸞聖人『教行信証』)
「仏願」は阿弥陀仏の本願ですから、
「仏願の生起」とは、阿弥陀仏の本願は、どんな者のために建てられたのか、ということです。
「本末」の「本」は、阿弥陀仏が法蔵菩薩となりさがられて、五劫兆載永劫の長い間、私たちを助ける働きのある御名号をつくられたご苦労です。
その結果、すべての人を絶対の幸福にする力のある働きのある、南無阿弥陀仏を完成されたのが「末」です。
ですから「本末」とは、御名号ができるまでの、本から末までです。
このように「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀仏は、どんな者のために御名号を作られたのか、その顛末の本から末までということです。
その「仏願の生起・本末」を聞くということです。どこまで聞くのかというと、「疑心有ること無し」までです。
一念で疑い晴れますので、ここが決勝点です。
これを「聞」といいます。
そこまで聞かなければなりませんから、仏法は聴聞に極まるの一本道です。
聴聞とは?
「聴聞」の「聴」は何を聴くのかというと、やはり「仏願の生起・本末」ですが、聴の間は、疑いは晴れません。
阿弥陀仏の本願を聴くと、必ず疑いが出てきます。
疑いがあってこそ、その疑いが「晴れた」ということがあります。
阿弥陀仏の本願を聴かなければ、生起・本末に対する疑いが出ませんから、「聴」からしか「聞」に入れません。
「聴聞」の「聞」は
「仏願の生起・本末」に疑い晴れたときです。
十方三世の諸仏の悲願にもれた極悪人のために建てられた、阿弥陀仏の本願に疑い晴れますから、「十方三世の諸仏に捨てられた者が私でありました」とツユチリの疑いもなくハッキリ知らされます。
その一念で、阿弥陀仏に救われますから、「聞即信の一念」といわれます。
「聞信」は、そのときをいいますから、
「聞」も「信」も「阿弥陀仏に救われたこと」です。
ですから「阿弥陀仏の弘誓願を聞信すれば」とは、阿弥陀仏の本願に救われたならば、ということです。
では、阿弥陀如来に救われたならばどうなるのでしょうか。
阿弥陀仏に救われると?
次に
「仏は広大勝解者とのたまい、
この人を分陀利華と名く」と言われています。
阿弥陀仏に救われたならば、その救われた人を、仏様は「広大勝解者」といわれると親鸞聖人はおっしゃっています。
「広大勝解者」とは大学者のことです。
「勝解者」なら、すぐれた色々のことを解っている者で、学者のことですが、「広大」とありますので大学者です。
仏様が「そなたは大学者だな、大学者になったな」とほめられます。
そして「この人を分陀利華と名く」の
「この人」とは、阿弥陀仏に救われた人です。
阿弥陀仏の本願を聞信した人を、仏様が、分陀利華とおっしゃいます。
仏様方が、「あなたは白蓮華のような、めったにない尊い人だ」とほめたたえられると親鸞聖人は言われています。
お釈迦さまは?
お釈迦さまは、阿弥陀仏に救われた人を、
我が善き親友なり(大無量寿経)
とおっしゃっています。
地球上にただ一人現れた仏であるお釈迦さまから、私の親しき友達だと握手を求められたら、大変な元気と勇気が出てきます。
お釈迦さまのみならず、大宇宙の諸仏方から
「広大勝解者じゃ、分陀利華じゃ、あなたはめったにいない人だ、めったにみられない人だ」
とほめちぎられます。
自惚れ強い私たちは、人からほめられてさえも、とても嬉しく思います。
空言たわごと、まことの一つもない、その時々にいい加減なことばかり言っている、人間にほめられてさえも嬉しくて元気が出てくるのに、
阿弥陀仏に救われたならば、絶対にうそをつかれない仏様方が、最高級のほめ言葉でほめて下されますから、ものすごい元気と勇気を頂いて、生き抜くことができる大変な幸せの身になれるのです。
なぜ仏方からほめられるの?
では、なぜお釈迦さまや諸仏方は、阿弥陀仏に救われた人をこのようにほめられるのでしょうか。
それは、地球のお釈迦さまをはじめ、大宇宙のすべての仏方の教えられていることは、
三世因果の道理を徹底し、後生の一大事を知らせて、その後生の一大事助けることのできる仏は、本師本仏の阿弥陀仏より他にないのだから、早く阿弥陀仏に救われなさい、ということ一つです。
これが釈迦の任務であり、十方諸仏のただ一つのつとめですから、その通りに阿弥陀仏に救われた人を、仏方は「分陀利華だ、広大勝解者だ」と喜ばれるのです。
そして阿弥陀仏は、釈迦や諸仏方の先生ですから
「私の先生の阿弥陀仏に救われた人は、みんな友達だ」と思われて、
「我が親友だ、親しい友達だ」とも言われ、そんな幸せ者はめったにないぞと、「分陀利華じゃ、広大勝解者じゃ」とほめられるのです。
そして親鸞聖人は、
「これは親鸞だけのことではありませんよ、
一切善悪の凡夫人が、仏にほめられる身になれるのですよ」
と言われています。
ではどうしたらそんな幸せな身になれるのでしょうか。
それは、阿弥陀如来の弘誓願を聞信すればなれますよ、だから阿弥陀仏の本願を聞きなさい、と教えられています。
そして早く阿弥陀仏に救われて、仏方からほめられる身になりなさいよと、親鸞聖人は朝晩、正信偈に教えられているのです。